2013年11月25日

【 いつも 喜んでいなさい 】

     いつも 喜んでいなさい。
     絶えず 祈りなさい。
     すべての事について、感謝しなさい。
     これが、キリスト・イエスにあって 神があなたがたに
          望んでおられることです。   
 ( テサロニケ 第一 5:16-18 )

● この聖書のことばは、主なる神を信じているクリスチャンに対して語られている言葉ですが、あなたが、クリスチャンでなければ、そんなのムリだよ! と思われるに違いありません。

 そうですよネ。「いつも喜ぶ」 なんて、とんでもない。いいことがあった時なら喜べる。
「絶えず祈る」 なんて、出来っこない。願い事がある時などに、神仏の宮に出かけて行って祈ったり、儀式の中で黙祷したりすることはあっても、回数にしたら、1年に何回あるのかな?
「すべての事に感謝」 なんて、ムリな話。感謝出来ないことに、口先だけで感謝しても、ウソになってしまう !

 まったく、その通りだと思いますが、主なる神さまを信じているクリスチャンは、そうではないんですよ。
 クリスチャンであっても、上に書いてある通りだ ━━ と思っておられる方があるとしたら、あなたの信仰が、的はずれになっていますので、神のみことば・聖書から、しっかり教えられ、内住してくださっている真理の御霊(聖霊なる神)に、きちんと教えていただきましょう。

「いつも 喜んでいなさい。」 とある、この「喜び」 は、この世が私たちに与えてくれる喜びとは違います。
「主にあって 喜びなさい。」 (ピリピ 3:1)
「いつも 主にあって 喜びなさい。」 (ピリピ 4:4)
 主にあって喜ぶ「喜び」 です。主の喜び・キリストの喜び、です。

 主イエス・キリストご自身が、言われています。
「わたし(イエス・キリスト)の喜びが、あなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」  (ヨハネの福音書 15:11)

 主なる神を信じ・受け入れているクリスチャンには、「主の喜び・キリストの喜び」 が、心のうちに与えられたのです。
 主なる神は、「喜び」に満ちあふれたお方です。 (詩篇 16:11)
 その、主なる神の喜びが、私たちの心のうちに満たされたのです。

 どのようにして ?

 私たちが、主イエス・キリストを、「神であり・救い主(ぬし)である」 と信じ・受け入れた時に、「聖霊のバプテスマ(洗礼)」 を受けて、全知・全能の「聖霊なる神」 が、私たちの心のうちに「助け主」 として入ってくださり、内住してくださるようになりました。
 私たちのからだは、「神の神殿・聖霊の宮」 となりましたよ。

 そして、私たちのうちに、御霊の実である、
愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制 ━━ の実を結んでいく者に、変えていってくださっています。

 これらはすべて、この世の与える 愛・喜び・平安 ・・・・・ ではありません。世が与えるものとは違います。
 「 主なる神の愛 ・ キリストの愛 」
 「 主なる神の喜び ・ キリストの喜び 」
 「 主なる神の平安 ・ キリストの平安 」
 ・・・・・・・・・・・・  です。

 主イエス・キリストは、「わたしの喜び」 を与えてくださいましたが、「わたしの平安」 についても、次のように語っておられます。
「わたし(イエス・キリスト)は、あなたがたに平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」 (ヨハネの福音書 14:27)

 主の 愛・喜び・平安 ・・・・・ / キリストの 愛・喜び・平安 ・・・・・ を、私たちの心のうちに与えてくださり、心に満たしてくださるのです。

 この、主の愛を・喜びを・平安を ・・・・・ 私たちから奪い去るものはありません。
 私たちは、この世で生活している限り、患難も・苦しみも・迫害も・危険も ・・・・・ さまざまのことが起こってきますが、主なる神から与えられ・心に満たしてくださっている、主の愛・喜び・平安 ・・・・・ は、ゆるがされることがないのです。
 あなたが、内住されている「聖霊に満たされている」限りは、大丈夫なのです。
 あなたは、何が起ころうとも、いつも、主にあって 喜んでいることが出来るのです。

「 いつも 主にあって、喜びなさい。」 喜び続けなさい。
 そのような、「わたしの喜び」 をあなたに与えています。
━━ と、主イエス・キリストはおっしゃっていますよ!

● 次に、 「 絶えず 祈りなさい。」 ━━ ということについてですが、誰に対して、祈るのでしょうか?
 クリスチャンの場合は、木や石などの偶像に対してではなく、「主なる神」 に対してですよネ。

「祈り」を、何か特別な形や内容が必要な、深遠で・瞑想的で・神秘的なものだと思っておられるとしたら、簡単には祈れないわけですから、「絶えず祈る」 などということは不可能です。
 一日あるいは一週間に何回か程度のものに、なってしまいます。

 聖書を通して、主なる神が教えておられる祈りは、そのような祈りではありませんよ。
「絶えず祈る」 祈りです。

 私たちが祈る対象のお方・主なる神は、どこか遠くにおられるのではないのです。実に、私たちの心のうちに、内住しておってくださるのです。
 私たちのからだは、「神の神殿・聖霊の宮」 だと、聖書で言われています。

 父・子・聖霊、三位一体(さんみいったい)の主であられる聖霊なる神が、私たちの心に内住しておってくださるのです。
 インマヌエル(神、われらと共にいます)のお方として、遠くではなく・そばにでもなく、実に、私たちの心のうちに住んでいてくださるのです。
 その、三位一体の主であられる神に祈るのです。

 私たちが、内住の聖霊なる神に導かれて祈る祈りは、芳しい香りとなって、天の御座におられる子なる神、イエス・キリストの所にまで立ち昇り、そのキリストのとりなしによって、キリストの御名のゆえに父なる神に届けられていくのです。
 父・子・聖霊、三位一体の主なる神が総がかりで、私たちの祈りを聞いてくださり、答えてくださるのです。

 私たちのうちに内住してくださっている神に祈るのに、それも、私たちを「神の子ども」と言ってくださっているお方に祈るのに、特別な準備・言葉・形式 ・・・・・ が必要でしょうか。
 
 子どもが、すぐそばにいるお父さんやお母さんに話をするのに、特別な何かが必要でしょうか。
 そばにお父さんやお母さんがいるのに、何も話しかけないで、黙ったままだとしたら、異常です。
「お父さん、・・・・・ 」 「お母さん、・・・・・ 」 と、ごくごく普通に・自然に話しかけます。聞いてもらいたいこと・お願いごと・感謝の気持ち など ・・・・・ 、いろいろ話しかけていきます。

 話しかけられたお父さん・お母さんの方も、子どもが話しかけているのに、聞こうともしないで・返事もしないで・黙ったままだとしたら、これまた異常です。
 親子の意志疎通がなされていないことになります。

「絶えず 祈る」 ということも同じです。
 私たちのうちにおられる(直接は、聖霊なる神にですが)三位一体の主なる神に祈るのです。話しかけるのです。絶えず 祈るのです。絶えず 話しかけるのです。
 賛美・感謝・願い・とりなし・悔い改め ・・・・・ なんでも祈るのです。話しかけるのです。
 子どもが、お父さんやお母さんに話しかけるように、話しかけるのです。祈るのです。

 父・子・聖霊、三位一体の主なる神が、総がかりで、私たちの祈りを聞いてくださり、答えてくださいますよ。
 いつ ? どんな形で ? ━━ それは、お楽しみ! すべてを最善に導いてくださる、主なる神さまにおまかせです。

● 次に、 「 すべての事について、感謝しなさい。 」 ━━ ということについてですが、これも又、「主にあって 感謝しなさい。」 ということですよネ。
 誰に対して、感謝するのでしょうか ? 主なる神さまに対してです。

 あたり前に思っていることも、ちょっとしたハプニングやトラブルがあると、とたんに、あたり前のことではなかったんだ ━━ と、思い知らされます。

 歩けるのがあたり前・走れるのがあたり前・物を持つのがあたり前・自転車に乗れるのがあたり前 ・・・・・ だと、今年(2013年)の6/13に、ギックリ腰になるまでは、そう思っていましたよ。
 9/10には、妻が、足の肉離れを起こして歩けなくなり、これ又、いろんなことが、あたり前ではなくなりました。

「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」  (ヨハネの手紙 第三 2節)
 健康も又、天地万物の創造主である、神さまからのプレゼントであることがわかります。

 クリスチャンは、毎日のように、「主の祈り」 を祈ります。これまで、合計すると、何回・何万回、祈ってきたでしょうか。
「私たちの日ごとの糧(かて)を、きょうもお与えください。」
 毎日の食べ物も、あたり前だとは思わないで、今日も与えられるようにと祈っています。

 毎食の、食事の前には、「食前の祈り」 をささげてから、感謝していただいています。
 感謝していただくと、おいしいものが、よけいにおいしくいただけます。

 自分たちのためだけでなく、今なら、大被害を受けて、食べる物にも窮されているフィリピンの人たちにも、「きょうの糧をお与えください。あすの糧もお与えください。」 と祈っています。

 毎日、太陽が上ってくるのも、必要な雨が降るのも、野菜や果実が育つのも ・・・・・ 私が生きていることも ・・・・・ 私が才能だと思っていることも ・・・・・ すべてが、決して、あたり前のことではありません。

 心臓が動いていることも、呼吸していることも、吸うべき空気があることも、その空気の中に絶妙なバランスで、必要な酸素があることも ・・・・・ すべてが、決して、あたり前のことではありませんよ。

「あなたは、何か、もらったものでないものがあるのですか。
 もし もらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」
                   (コリント第一 4:7)

 すべてのことが、天地万物の創造主である神さまからのプレゼントです。
 こうしたことを、しっかりと認識して、すべての事について、主なる神に感謝するのです。

 避けることの出来ない災害や患難さえも、感謝します。
 患難は、経験したくはありませんが、そのことさえも、
「神を愛する人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる。」  
   (ローマ 8:28) ━━ と、約束してくださっています。

 そのような患難さえも、試練の時・私たちを練り上げる時として、益に導いてくださいます。
 患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が、希望を生み出していくように導いてくださるのです。

 そして、そのような私たちの経験さえも生かして、同じような苦しみの中にいる人たちのために、用いてくださるのです。

 すべての事について、主にあって 感謝しなさい。
 これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに望んでおられること ━━ なんですよ !

363.jpg
posted by ukon3 at 21:58| Comment(0) | 聖書 シリーズ
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: