2014年03月26日

必読 【 大同美香さんからの 伝言 】 ( 1 )

● 3/25 、【 大同美香 展 】 に行った時に、ホームページからの転載を 許可していただきました。

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 はじめに
 私は生後20日で、火事に遭い、布団から出していた手と、顔に火傷を負いました。
 その為、人とは違った30年間を、過ごしてきました。
 個展がきっかけで、K 教授と出会い、京都にある短大と大学で思いがけず、スピーチという経験をすることが出来ました。以下はその原稿です。
 少し長いですが、時間の許す限り、読んでみて下さい。

 私は、生後20日で、ストーブの上に、干してあった、おしめが落ちたのが原因で、火事に遭い、火傷を負いました。
 当然ですが、私には記憶がないので、ここからの話は、母や祖母から聞いたことになります。
 里帰り出産で、おばあちゃんが、火の中に飛び込んで、助け出してくれたそうです。
 でもヒドイ火傷で、救急病院から、国立豊岡病院、そして京大と病院を転々とし、診察してくれた、先生全員に、「覚悟をしておいて下さい。」と言われたそうです。
 親戚のおじさんが、私を見て、哀れに思い、この子の内臓を、提供するから、殺してやってほしいと、いうような内容のことを、教授に頼んだそうです。もうちょっとで殺されそうになったけど、法律が私を、守ってくれました。とにかく、完治する迄に、1年かかったそうです。

 そしておばあちゃんの家から、高槻に生活を移し、それからはずっと閉じ込められていて、おばあちゃんの家しか、行ったことがありませんでした。
 そして就学年齢になり、市役所の人が、「学校はどうされますか?」と、就学指導に来られた時、両親は、校区の小学校には通わせず、訪問教育を選んだそうです。

 訪問教育 というのは、養護学校に在籍し、そこの学校の先生に、家に来てもらって、勉強することです。
 でも、訪問教育といっても、毎日じゃなく、週2回。しかも2時間程度のものです。
 だから国語の漢字、数学の計算問題がやっとで、理科・社会を受ける時間はなく、全くといってもいい程、受けていません。

 就学指導と同時に、高槻医大を紹介してもらいました。
 というのは、今はこんな小さな目をしているけど、5才までは、上下の結膜が、腫れあがり、眼球が露出していて、まぶたがないので、目が乾燥して、失明する恐れがあるからと、手術を勧められたのです。それから小学4年生まで、毎年秋に入院をしました。
 小さい手術から、大手術まで合わせて、10回以上、期間は、短いので2週間、一番長いので100日位でした。

 その間、手術中、急に血圧が下がり、危険な状態になったり、口から麻酔がかけられないので、いつも気管切開で、気管に穴を開けられるから、喋れず、辛い思いをしました。
 5年生の秋に、いつも通り入院をし、検査してもらったら、貧血で手術が受けられず、それからは、1度も入院することもなく、今日まできました。

 小学校は、高槻市立養護学校の、訪問教育を受け、そこで 堀川先生 と出会いました。
 未だ学校へ入学していない、6才の誕生日に、先生は、お花を持って家に来て下さいました。
 それから、6年の間に、信頼関係が生まれ、何でも話せる “心の先生” になっていました。
 堀川先生は、私を学校に連れ出してくれるために、自動車の免許をとってくれたそうです。

 親の反対で、入学式にも出ていないから、生まれて初めて学校に行ったのは、小学1年生の時、キャンプファイアーの行事があった時でした。
 当然ながら、免許とりたての、若葉マークのついた先生の車で、先生の運転でした。
 それから医大の通院も、授業の一貫として、扱ってもらい、先生にも、病院へ一緒について行ってもらって、帰り、山に行ってドングリや、落ち葉を拾ったり、川に行ったり、いわゆる自然を見せて下さいました。

 初めてレストランに連れて行ってもらって、食べたハンバーグが美味しかったのも、憶えています。
 先生の家にも、何度も連れて行ってもらったこともあります。
 とにかく堀川先生は、私の知らなかった外の世界を見せてくれて、私を出したくないという、両親の考えを変える為にも、私を外に連れ出そうと、してくれた先生でした。

 ( 疎水 )
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