2013年08月24日

トマス・アクイナスの言葉

● トマス・アクイナス(1225〜1274 イタリア 神学者・哲学者・ドミニコ会士)

「誰かを愛することは、その人に、幸福になってもらいたいと願うことである。」

※  誰かを愛することは ━━━

・ その人を理解しようとし、同じ思いになって、いっしょにものごとをしていくことである。
・ その人の言っていること・言おうとしていることを、よく聞くことである。
・ その人のいやがることは、絶対にしないことである。
・ その人の、そばにいることである。そばにいれば、その人のために、何をするべきかが わかってくる。何をするべきでないかも、わかってくる。
・ その人といっしょに喜び、その人といっしょに泣くことである。

・ その人だって、やりたくないだろうこと(食後の後片付けなど)を、率先してやっていくことである。
・ その人のために、祈ることである。
・ その人を、尊敬することである。
・ その人を、自分よりすぐれていると思うことである。
・ その人のために、自分の時間を与えることである。

・ その人をキリストだと思って、愛することである。
・ その人といっしょに、何かが出来ることを喜ぶことである。
・ その人にも、「天国」に入ってもらいたいと思うことである。
・ その人の家族や、周りにいる人たちをも愛することである。
・ その人に対して、いつも親切で、塩味のきいたことばで話すことである。

・ その人の、汚れた足を洗うしもべのようになることである。
・ その人のためにすることは、先のばしにしないで、すぐすることである。
・ ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛することである。
・ その人と話したい・会いたいと思い、出来れば、顔を合わせて話し合うことである。
・ その人のことばや考えを大切にし、その人から学ぼうとすることである。
 ・・・・・・・・・・・・・

・ (あとは、皆さんで考え、そのように行っていってくださいネ。)

( パリにて by yasu )
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2013年08月23日

J・H・ペスタロッチの言葉

● J・H・ペスタロッチ(1746〜1827 スイス 近代教育の父)

「家庭よ、汝は道徳上の学校なり。」

※ 「見よ。兄弟姉妹たちが、一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」  (詩篇・133篇1節)

 きょうだい達の和合(なかよくすること)。一つごころになって、生活していることの幸せ・楽しさ。
 夫婦の和合・親子の和合・きょうだいの和合・家族の和合。この世界で、一番の基本の単位である家庭が、みんななかよく・一つごころになって、毎日の生活をしていくことは、なんというしあわせ・なんという楽しさでしょうか!

 しかも、しあわせ・楽しさだけでは終わりません。
 最初の詩篇のことばは、
「主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」と、続きます。
 主なる神は、そのような家庭に、永遠のいのちに続いていく祝福を、与えてくださるというのです。

 しかし、現実はなかなか、そうはいっていません。そして、その分、主なる神からの約束の祝福を、逃してしまっていますよ。 もったいな〜〜い!

 私たちは、原罪をもって生まれ、原罪を内住させて生きている者です。
 夫婦・親子・きょうだい達の間で、一つごころになるよりは、反発したくなります。そして、いつも正しいのは自分で、間違っているのは相手、つれあい・親・きょうだい達です。
「〜〜してくれない!」と連発する「くれない病」にも、かかってしまっています。

 さあ、次の聖書のことばに、あなたはどう反応するのか、自分でチェックしてみてください。

● 夫婦に対して
・ 夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。
 キリストが教会を愛し、ご自身をささげられたように、自分の妻を愛しなさい。
自分のからだのように、愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は、自分を愛しているのです。妻を、自分と同様に愛しなさい。
 いのちの恵みをともに受け継ぐ者として、妻を尊敬しなさい。

・ 妻たちよ。夫に従いなさい。主に従うように、すべてのことにおいて、自分の夫に従いなさい。
 自分の夫を敬いなさい。

● 親子に対して
・ 父たちよ。子どもをおこらせては・いらだたせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。
・ 子ども達よ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは、主に喜ばれることだからです。
「あなたの父と母を敬え。」(「十戒」の第5戒)。 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束を伴ったものです。

● きょうだいに対して
・ きょうだい(兄弟姉妹)愛を、いつも持っていなさい。
・ 心から互いに愛し合い、尊敬をもって、互いに人を、自分よりまさっていると思いなさい。

 さあ、どうだったでしょうか?
 反発を感じる・感じないは、自由ですが、もし反発を感じられた(部分があった)のだとしたら、それは、あなたが神の基準からはずれているということであり、そのことを固辞する以上、神の祝福を受けることが出来ないのは、仕方がありませんよネ。

「一切れのかわいたパンがあって平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」
                                   (箴言・17章1節)
「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。」 (15章17節)

( パリにて by yasu )
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2013年08月22日

マーティン・ルーサー・キングの言葉

● マーティン・ルーサー・キング(1929〜1968 米国 牧師・アフリカ系アメリカ人公民運動の指導者)

「闇に闇を追い払うことはできない。それができるのは、光のみ。
 ━━ 憎しみに憎しみを消し去ることはできない。それができるのは、愛のみ。」

※ 私たちは、一寸先が見えない、闇の中を歩いているような気がします。
 一時間後に、何が起こっているのかもわかりません。

 今朝(2013.8.22)の新聞を見てみても、
・ 心の病 会社員2割増、心の病におびえて働く、「職場にばれたらクビかも」
・ タンク汚染水 海流失か、福島第一 排水溝で高線量
・ 「毒ガスで 1500人死亡」シリア反体制派が発表、女性・子供の遺体映像
・ 乳児 足指3本壊死、兵庫県立病院 10倍の抗生物質
・ 福知山事故1週間 爆発直前 そのとき店主は、ガソリン手で止められず
・ 体操選手「コーチが暴力」、大阪JOC 初の本格調査
・ 「景品不正訴えたら解雇」提訴へ、秋田書店は争う考え
  ・・・・・・・・・

 いつか、あるいは案外近い日に、死も、まちがいなくやってきますよ!

 私たちの行く先に希望がなければ、現実は、不安にする材料ばかりです。
 闇で闇を追い払うことはできません。
 光が必要です。確かな光が、必要です。世の光が、必要です。

 憎しみは、憎しみを生み出します。目には目・歯には歯。剣をとる者は、相手にも剣をとらせ、戦いとなり、双方が傷つき、破壊し合い、滅んでいきます。
 憎しみでもって、憎しみを消し去ることは出来ません。

 主イエス・キリストは、言われます。
「 『目には目で・歯には歯で』 と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』 と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」     (マタイの福音書・5章38〜44節) 

 愛しか、真の解決はないのです。愛が必要です。
 光よ、あれ。 愛よ、あれ。

 主イエス・キリストは、言われます。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
 主イエス・キリストは、言われます。
「神は愛です。わたしが、あなたがたを愛したように、あなたがたも、互いに愛し合いなさい。」

 主イエス・キリストから、「光と愛」をいただいて、闇の世界に・憎しみの心に、私たちが、光をかかげ、愛を届けていくのですよ。

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2013年08月21日

エイブラハム・リンカーンの言葉

● エイブラハム・リンカーン(1809〜1865 アメリカ第16代大統領)

「神様はきっと、普通の人が好きなんだろう。さもなければ、こんなに沢山の普通の人間を、おつくりにはならなかっただろうから。」

※ 主イエス・キリストは、言われます。
「あなたがたが、わたしを選んだのではありません。わたしが、あなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
 それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父(なる神)に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」               (ヨハネの福音書・15章16節)

 今は天におられる、落語家の露の五郎兵衛さんは、「私は、イエスさまにスカウトされて、弟子にさせていただきました。」と言われましたよ。

 私たちも、主イエス・キリストに選んでいただいて、救っていただき、死からいのちへ・闇から光へ、移された者なのですが・・・・・ 使徒パウロは、言います。
「兄弟姉妹たち。あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。
 この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
 これは、神の御前(みまえ)で、だれをも誇らせないためです。」
             ( コリント第一・1章26〜29節 )

 私たちクリスチャンのほとんどは、「この世の知者・権力者・身分の高い者」ではありません。納得です。
「この世の愚か者・この世の弱い者・この世の取るに足りない者・見下されている者・無に等しいもの」 ━━ だ、と言うのですネ。ウ〜〜〜ン。やっぱり、な・っ・と・く ですかね。

 愚か者・弱い者・取るに足りない者・見下されている者・無に等しいもの・・・・・ そこまで言わなくても・・・・・ と思ったりしますが、「この世の」と断っています。
「この世の知者」なのか「この世の愚か者」なのか。「この世の権力者」なのか「この世の弱い者」なのか・・・・・という風に考えてみますと、この世の知恵やこの世の力で生きている者ではありませんし・・・・・ 納得です。

 私たちは、この世にあって、ごくごく普通の人間です。世界70億の人口の、沢山の普通の人間の一人です。70億の中の、捜すのもむずかしいほどの無に等しい者ですが、主なる神さまは、
「わたしの目には、あなたは高価で尊(たっと)い。わたしはあなたを愛している。」
                    (イザヤ書・43章4節)
と言ってくださっていますヨ!

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2013年08月20日

マザー・テレサの言葉

● マザー・テレサ(1910〜1997 アルバニア カトリック修道女・「神の愛の宣教会」創立者)

「わたしたちは、大きなことはできません。ただ、小さなことを、大きな愛を込めてするだけです。」

※ 「小さな事に忠実な人は、大きな事にも忠実であり、小さな事に不忠実な人は、大きな事にも不忠実です。」  (ルカの福音書・16章10節)
 イエス・キリストが、弟子たちに語られたことばです。

 私たち一人一人は、おのおのその能力に応じて、主なる神から、賜物(タラント)を預けていただいています。与えられた(貰った)のではありません。預けておられるだけですから、かん違いをしてはいけませんネ。
 
 ある人には5タラント、ある人には2タラント、ある人には1タラント・・・・・という風にです。1タラントといっても、すごい金額なんですよ。
 1タラントは、6000デナリ。1デナリは、1日分の労働賃金に当たりますので、1日分を少なめに5000円としても、3000万円ということになるのですから。

 それほどの、お金に換算すれば、すごい賜物を預けられているのですが、私たちは、そのような自覚に乏しいのかもしれません。

 貰ったのではありません。勝手気ままに使いなさい、ということではありません。
 わたしたちは、預けられた賜物を、正しく・賢く管理して、生かして、増やしていくようにと勧められています。
 5タラントの人には10タラントに、2タラントの人には4タラントに、1タラントの人には2タラントに。
 
 1タラントの人に、2タラントや5タラントの人と同じようにすることは、求められていません。求められているのは、1タラントの人には、その1タラントの賜物に忠実であることです。
 そして、それらの賜物を、管理・活用するようにと預けられた主人(神)は、
「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたに、たくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」
と言って、祝福してくださるのです。

 私たちの多くは、5タラントや2タラントをまかされた者ではなく、1タラント(それでも多額です!)をまかされた者だろうと思います。大きなことは出来ません。
 しかし、小さなことを、忠実に、大きな愛を込めてすることは出来ます。
 小さな一つ一つのことを、すぐそばにいる身近な人たち(家族や隣人・となりびと)に対して、あたかもイエス・キリストに対してするように、忠実に、大きな愛を込めて、やっていくのです。

 こんなちっぽけなこと ━━ と思わないでください。
 バケツの水を、一本のわりばしでかき回していれば、最初の内は何の変化もないように見えても、だんだん流れが出来ていき・・・・・ やがて、大きな愛の水の流れとなっていくことでしょう。

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2013年08月19日

ヘレン・ケラーの言葉

● ヘレン・ケラー(1880〜1968 米国 教育家・社会福祉事業家)

「障害をもって生きることは、非常に不便ですが、決して不幸ではありません。神の声が聞けるのですから。」

※ 誰も、障害をもって生まれてきたり、生涯の中で、障害をもつようになってしまったりすることを願う人はいません。

 私たちの教会にも、すでに天に召されましたが、視覚障害の方がおられました。「障害者手帳」を持っておられる方も、何人かおられます。
 私たちも年齢がすすむと共に、心や体に障害が出てくることは、ほぼ間違いがないことでしょう。健常者・障害者などと区別・差別することなく、だれもが、同じ目線で生き、互いに理解し・尊敬し合いながら、共生していく社会を目指していかなくてはなりません。

 障害をもって生きていくということは、非常に不便なことです。
 少しの間でも、目をつぶって・アイマスクを付けて行動しようとしても、何も出来ません。視覚障害の方々の、大変さを覚えます。

 自分も弱さをもつ者であること・いつか弱さをもつようになる者であることを思えば、もっともっと、互いに助け合って生きていく社会でなければならないと思います。

 しかし、障害をもった人たちが、一番困っており、願っていることは、「障害をもっているが故に、差別されていく社会」━━ そのような社会で、なくなることです。

 私たちは、原罪をもって生まれてきていますし、原罪を内住させて生活していますから、「障害をもっている人たち」を、無意識・無感覚に、差別していっています。

 聖書の中に、次のような事が記されています。

 イエス・キリストと弟子たちが、神さまのことを伝える旅の途中で、生まれつきの、目の見えない人に出会いました。
 弟子たちは、この人のことについて、イエスに質問して言いました。
「先生。この人が、目が見えないで生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

 因果応報。何か原因があったから、このような悲惨な結果になっているのだ! 多くの宗教がそのように教え、弟子たちもそのように考え、質問したのでした。
 本人の罪? 両親の罪? 神が罰(バチ)を与えているのだ!

 しかし、主イエス・キリストは、彼らのまちがいを、はっきりと指摘されます。そして、真実の答えを教えられます。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
 神のわざが、この人に現れるためです。」

 人間の始祖・アダムとエバが、原罪を犯してしまった結果、このような、障害をもって生まれてくる人たちも、現れるようになってしまいました。
 しかし、このことは、この人や両親の罪のせいではありません。原罪の結果として、起こるようになってしまったことです。

 障害をもって生まれてきたということは、大変なことです。
 しかし、主なる神の、一人一人への愛は変わりがありません。

 この障害をもった人を、主なる神であるわたしは、特別に愛を注いで、この人を通して、わたしの栄光・神の栄光があらわされていくように導きます。
 この人の口を通して、「私は決して、不幸ではありません。神の声が聞けるのですから。」と、人々に語ることが出来るまでに、祝福します!

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2013年08月18日

カール・ヒルティの言葉

● カール・ヒルティ(1833〜1909 スイス 法学者・哲学者・政治家)

「どんな苦痛でも、それにすこしの罪も混じっていなければ、堪えられるものである。」

※ 私たちが経験する苦難・患難には、2種類あります。
 原罪の結果として、起こることになってしまった患難については、何回か記してきました。
 自然災害が、その代表的なものですが、こうしたことに会うことを願いませんが、残念ながら、避けることは出来ません。

@ 原罪の結果としての、患難・苦難・死はあります。
 こうした患難・苦難にある私たちは、「神を愛する人々のためには、すべてのことを益にしてくださる」という神の約束に従って、試練の時・私たちを練り上げていただく機会として、忍耐 → 練られた品性 → 希望 へと導かれ、これらすべてのことの中にあっても、気持ちの上では、圧倒的な勝利者となることが出来るのです。

A もう一つの、苦難・患難があります。
 私たちが、自己責任で罪を犯してしまい、その結果として招いてしまう種類の苦痛です。

 同じ交通事故でも、巻き添えをくって被害にあう交通事故と、自分が加害者となる交通事故とでは、大違いです。
 この種の苦難・患難は、本来あってはいけないものです。

 私たちが、してはいけないとわかっていて、罪を犯してしまいます。私たちを愛しておってくださる主なる神が、喜ばれないこと・そんなことをすれば、主なる神の祝福をを逃してしまう、ということがわかっていて ━━ そのことをしてしまいます。主なる神に対して、罪を犯してしまいます。

 不品行・汚れ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・憤り・党派心・分裂・分派・ねたみ・酩酊・遊興、そういった類のものです。

 主なる神は、私たち一人一人を愛しておってくださいますから、私たちに罪であることを教え・示し、悔い改めに導かれます。
 そして「罰・バチ」としてではなく、父が愛する子を懲らしめるように、罪を憎んで、主の懲らしめを与えられます。神は、私たちを、子として扱っておられるのです。
 これは、罪に汚れてしまった私たちを、元通り、ご自分の聖さにあずからせようとしてなされる訓練です。 
 懲らしめ → 訓練 → 元のように、平安な義の実を結ぶ私が、回復されていきます。

 どんな苦痛であったとしても、それにすこしの罪も混じっていない種類のものでないと、いけませんよネ!

(パリにて yasu)
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2013年08月17日

トマス・ア・ケンピスの言葉

● トマス・ア・ケンピス(1380〜1471 ドイツ カトリック修道士・中世の神秘思想家・聖書に次いで最も読まれた本「キリストに倣いて」の著者)

「大いなる心の平安は、世の賞讃も中傷も気にしない人間のものである。」

※ 「平安が、あなたがたにあるように。」(シャローム)
と、主イエス・キリストは、私たちを祝福して言われます。
「わたし(イエス・キリスト)は、あなたがたに、『わたしの平安』を与えます。わたしがあなたがたに与える平安は、世が与えるのとは違います。」

 世が与えてくれる「平安」━━ 「平和」な心は、だれもが求め、どの民族・どの国の人たちも求め、そのために努めているものなのですが・・・・・。いつまでも続く「平安・平和」・恒久的な「平安・平和」を願っているのですが・・・・・、私たちの心は、絶えず、騒いでいます。恐れています。平和を求めているのだ、と言いながら、争っています。

 世が与えてくれる「平安・平和」は、いつまでも続くものではない、むしろ、つかの間のものであることが経験からわかっていることなので、求め続けているのだ ━━ と言えるのかもしれません。

 では、イエス・キリストが、信じる私たちに与えてくれる 「キリストの平安」 とは、どのようなものなのでしょうか。

 この世の与えてくれる「平安」が、一時的で、永く続くものでないのは、一番根本の部分である、創造主・神との間に平和がないからです。神との和解がなされていないために、罪(原罪)の問題が解決されていないのです。
 罪に関わる、自他の、さまざまな思いや行為が、平安・平和を壊していってしまうのです。

 世界中で・この日本の国で、一日として、戦争や争いのなかった日が、あったのですか?
 人が殺されるという殺人や、追い込まれて自殺する人がなかった日が、あったのですか?
 盗難・強盗・詐欺事件のなかった日が、あったのですか?

 こうしたことを、人ごとのように考えないでください。私たち一人一人にも、罪(原罪)の心が解決されないまま、私たちに住みつき(内住し)、私たちを支配し続けているのです。
 このことに解決がないままで、「平安・平和」と叫んでも、あなたが願っているようには、なってはくれません。

 実は、「平安・平和」は、あなたが作り出していくものではありません。
 はじめに、「平和」ありき ━━ だったのです。天地創造の時点では、四六時中、「平和」だったのです。平和しかない世界だったのです。
 そのような平和な世界に、罪(原罪)が入って来て、創造主・主なる神との平和が破壊されてしまい、「平和・平安」が失われてしまったのです。

 そのような「平和・平安」を、あなたが・あるいは人間の手で何とかしようとしても、不可能なことなのです。
 真に、「平和・平安」を願い求めるというのなら、第一のことをまず第一番にしなければなりません。それは、「神との和解」がなされ、罪(原罪)の問題が解決されていかなければなりません。

 そして、そのことをまず、あなた自身から始めなければなりません。
 世界平和・日本の平和は、まずあなた自身の中に、「いつまでも続く平安・平和」が、スタートしていかなくてはならないのです。
 口先だけの平和・一時的な平和運動では、「平和」はやってきません。実現していきませんよ!

「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくれます。」   (ピリピ人への手紙・4章7節)

(パリにて yasu)
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2013年08月16日

ヘンリー・ドラモンドの言葉

● ヘンリー・ドラモンド(1851〜1897 スコットランド 生物学者)

「人生を振り返ると、まともに生きたと思われる瞬間は、愛をもって生きた瞬間だけでした。」
「神は愛です。ですから、愛しなさい。差別せず・計算せず・躊躇せずに、愛しなさい。」

※ 神は「愛」です。キリスト教の本質も「愛」です。
 キリシタン時代の言い方でいいますと、「ご大切」です。

 聖書で、「愛」とか「愛する」ということばが、どれほど使われているのでしょうか。
 全部のものを調べてみましたが、旧約聖書では267の節。新約聖書では289の節。合計556の節で使われています。
 1節の中に、何回か使われていることがありますから、回数で言いますと、もっと増えることになります。

 新約聖書の中には、21の手紙が含まれています。その内、13の手紙は使徒パウロによって書かれ、各地の教会や弟子たちに送られたものです。
 もう少し正確に言いますと、パウロが口で語ったものを、誰かが筆で書き記しました。


「ローマ人への手紙」は、テルテオという弟子が書き記しました。
 本文の中に、「この手紙を筆記した私、テルテオも、主にあってあなたがたに、ごあいさつ申し上げます。」という内容の文章が記されています。

 使用した紙は、パピルス紙といって、「パピルスという葦」の繊維で作った紙に書き記されました。
 
 こうして書き記された手紙を、別の弟子が、それぞれの教会などに届けました。
「コロサイ人への手紙」は、テキコという弟子が、コロサイの教会に届けました。
 そして、その地方一帯の教会で、次々回覧されて、朗読されていきました。

 そのような、パウロからの手紙の中で、「愛」について記している個所を、いくつか紹介してみましょう。

・ 私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれています。             (ローマ 5:5)
・ 愛には、偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。 (ローマ 12:9)
・ 知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。 (Tコリント 8:1)
・ いっさいのことを、愛をもって行いなさい。 (Tコリント 16:14)
・ キリストの愛が、私たちを取り囲んでいます。 (Uコリント 5:14)

・ 愛によって働く信仰だけが、大事なのです。 (ガラテヤ 5:6)
・ 愛をもって、互いに仕えなさい。 (ガラテヤ 5:13)
・ あなたがたの愛が、真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることが、できるようになりますように。                 (ピリピ 1:9−10)
・ これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は、結びの帯として完全なものです。                          (コロサイ 3:14)
・ あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。 (Tテサロニケ 3:12)

・ 愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。・・・・・愛がないなら、何の値うちもありません。・・・・・愛がなければ、何の役にも立ちません。
 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをおおい、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は、決して絶えることがありません。
 いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。その中で、一番すぐれているのは、愛です。
 愛を追い求めなさい。  (Tコリント 13章)

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2013年08月15日

ニコラス・ルードヴィッヒ・フォン・ツィンツェンドルフの言葉

● ニコラス・ルードヴィッヒ・フォン・ツィンツェンドルフ(1700〜1760 ドイツ 神学者・モラヴィア兄弟団の監督)

「神に従う生活をしない者は、ただ怖れにばかり支配される。」

※ 反対に、神に従う生活をする者は、怖れに支配されることはありませんよ。
 どうしてですかって? それは、神に従う生活をする者を、神が、ほおっておかれることがないからです。

 すべて、主なる神を愛する者は、主なる神が守ってくださいます。主なる神が助けてくださいます。
 主なる神は、私の回りを囲む盾です。悪魔(サタン)から、悪しきもの(者・物)から守ってくださいます。

 どのようにしてですか? あなたは、「主の使い・天使」の存在を、信じることが出来ますか。その存在を認識し、実感することが出来ますか?
 よく絵に描かれているような、羽根のはえた子ども姿の天使ではありませんよ。あるいは、何もしないで、ただじっと見つめているだけの天使でもありませんよ。

 エリシャという預言者は、自分たちを取り巻き・守ってくれている天使たちのことがわからず、あわてふためいている若い従者のために、このように祈りました。
「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」

 主なる神は、すべて主を愛する者たちの回りを囲む盾となって、守ってくださいます。
 主の使い・天使が、主を畏れる者の回りに陣を張って、私たちをしっかりと守り、助け出してくれています。一人や二人の天使ではありません。私たちと共にいる者は、私たちを陥れようとする者よりも多いのです。

 私たちは、主なる神のバリア(防護壁)の中・陣地の中にいて、敵から守られているのです。陣の中にいる限りは、大丈夫です。
 私たちを守っていてくださる方は、全能のお方です。敵する者たちは、手も足も出ません。悪い者たちは、私たちに触れることが出来ないのです。

 しかし、気をつけてください。大丈夫なのは、バリアの中・陣の中にいる限りの話です。
 不用意に柵に近づいていったり、バリア・陣の外に出てしまっては、敵の思うツボです。
私たちの敵である悪魔(サタン)が、ほえたける獅子(ライオン)のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っているのです。

 まことに、主なる神は、神を信じ・愛する私たちのために、御使い(みつかい)たちに命じて、すべての道で、私たちを守るようにしてくださっています。
 御使いたちは、その手で、私たちをささえ、私たちの足が石に打ち当たることのないようにしてくれています。
 御使いたちはみな、仕える霊であって(この肉体の目では見えません。)、救いの相続者とされている私たちに仕えるために、主なる神が遣わしておってくださるのです。

 私の助けは、天地を造られた主なる神から来ます。
 主は、私の足をよろけさせず、私を守る方は、まどろむこともなく、眠ることもありません。
 主は私を守る方。主は、すべてのわざわいから、私を守り、私のいのちを守ってくださいます。
 主は、私を、行くにも帰るにも、とこしえまでも守ってくださいます。 (詩篇・121篇)

 さあ、どうでしょうか? あなたには、このような確かな守りと助けがありますか?
 
 もしあなたが、神に従う生活をされていないのだとしたら、このような、守りも助けもないわけですから、大変ですネ。
 あなたを何とかして、神に敵対する側に引き込もうとする者からの、強力で・執拗な攻撃に自衛しながら、あなたは、絶えず怖れに支配されながら、生きていくことになってしまうのですよ。

(パリにて yasu)
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posted by ukon3 at 20:03| Comment(0) | この人の こんな言葉