2013年11月28日

A・T・ピアソンの言葉

● A・T・ピアソン(1837〜1911 米国 牧師・宣教師)

「 History is His story (歴史は、彼=神の物語) 」

※ 世界の歴史は、私たち人類が、思いのままに進めてきたものだと思っていますが、
さて、どうなのでしょうか。

 世界の歴史の始まりが、旧約聖書の「創世記」 に記されている通り、主なる神による、
天地創造によってスタートしたのが真実だとしたら、世界の歴史の終末は、「ヨハネの黙示録」 に記されている形で終わっていくことも、真実であることでしょう。

 世界の歴史は、「創世記」 に始まり、「黙示録」 で終わっていく ━━ 主なる神によって啓示(おおいをとりのけること) された、神の言葉をなぞっていっているものである、と言えそうです。

 天地万物は、主なる神によって、完璧に創造されました。
 すべてのものは、完璧な形で創造され、非常によかったのです。
 どれもどれも、主なる神さまの、見事な芸術作品でした。

 嵐も・津波も・高潮も・洪水も ・・・・・ ありませんでした。
 干ばつ・地震・天変地異 ・・・・・ 戦争・泥棒・殺人・あらゆる悪 ・・・・・
 悲しみ・叫び・苦しみ・病気・死も ・・・・・ ありませんでした。
 すべてのものは、主なる神によって、完璧な形で創造されたのです。

 ところが、最初に造られた、始祖である人間・アダムとエバが、主なる神に、忠告を無視して反逆の原罪を犯してしまい、天地創造の祝福が破壊されてしまいました。
 自然はうめき・苦しむものになってしまい、私たち人類は、原罪をもって生まれ、罪を愛し・悪を受け入れ・原罪に支配されてしまうものになったのです。

 天地創造の時点ではなかったものが、次々と起こるようになってしまいました。
 殺人・差別・いじめ・災害・暴力・権力支配・姦淫・偶像礼拝 ・・・・・
 いろんな宗教が生まれていった ━━ というと、カッコよく聞こえますが、神ならぬものが、おのが神として作り出されていきました。

 こうした数々のことを推し進めようとする、「この世の君・悪魔(サタン)」 と、その手下の悪霊たち。
 そして、それを阻止し、神の国を進展させていこうとする、主なる神と天使たち。
 私たちは、そのどちらかの側に立って行動しているのです。

 世界の歴史は、主なる神の側に立つ者と、この世の君・悪魔(サタン)の側に立つ者の、攻防の歴史である ━━ と言えそうです。

 世界の歴史は、創造主なる神に対する背信と罪の歴史と、それに対する主なる神の、愛による回復の歴史である ━━ とも言えそうです。

「あなたは、うなじのこわい民である。
 どんなにあなたの神、主を怒らせたか。
 あなたがたは、主に逆らいどおしであった。
 あなたがたは、あなたがたの神・主の命令に逆らい、主を信ぜず、その御声に聞き従わなかった。
 あなたがたはいつも、主にそむき逆らってきた。」  (申命記 9章)

 そして、こうした背信と罪の歴史のまっただ中に、神である主イエス・キリストが、送られてきたのです。
 100%神であり・100%人間であるお方として、私たちの罪とさばきからの救い主として、主イエス・キリストが、誕生してくださったのです。 (クリスマス)

 主の年(Anno Domini A.D.)がスタートしていきました。
 今年は、主の年(A.D.)の2013年目。
 この2013年間は、主イエス・キリストによる、「救世主」 としての、救いの歴史である ━━ とも言えるのです。

「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
                      (マルコの福音書 16:15)

 そして、まもなく、「黙示録」 に啓示されている、最後の審判・世界の終末とさばきの時がやってきます。

 今の世界が、今後どのように進んでいくのかを知りたければ、「ヨハネの黙示録」 をお読みになってみてください。

 世界は、「最後の審判」 で終わりではありません。
 今、私たちが見ている天と地は過ぎ去り、新しい天と新しい地が準備され、主なる神を信じ・救われた者たちは、新天新地において、永遠のいのちを生きる者とされるのです。

 世界の歴史が、「 History is His story (歴史は彼=神の物語)」 と わかっていれば、いかにドラマチックに・ダイナミックに進んでいっているかが、よくわかりますよ !

( ガーデンミュージアム 比叡にて by yasu )
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2013年11月16日

バリー・セントクレアの言葉

● バリー・セントクレア

「キリスト教を頭に詰め込むのは容易だが、心にまで到達させるのは困難である。」

※ キリスト教を・あるいは聖書を、知識として、頭に詰め込むことは、容易です。主なる神を信じていなくても、ある程度のことは出来ます。
 キリスト教のうわっつらの・表面的な知識ですが、知ったかぶりをして、人に教えたり・語ったりすることは出来ます。

 クリスチャンである私が、日蓮宗や法華経のことなどについて語るのと似ています。私には、その本質がわかっているわけではありませんので、そのような無知な・思い上がったことはいたしません。

 キリスト教は、まさにキリストそのものですので、イエス・キリストを、「神であり・私の罪とさばきからの救い主(ぬし)である」ことを、まず、心にまで到達させることです。
 そのことなしに、頭に詰め込むだけでは、その本質・真髄は何もわかっていないことになります。

 ユダヤ人の指導者で、旧約聖書をいっぱい読んでいて、律法を厳格に守り行うことが、主なる神から義(ただしい)とされると信じていたパリサイ人(びと)で、 ニコデモ という人がいました。
 その人が、夜こっそりと、イエス・キリストの所にやって来て、教えを乞います。
 
 イエス・キリストは言われました。
「まことに(アーメン)、まことに(アーメン)、あなたに告げます。
 人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

 ニコデモは、聖書にはよく通じているつもりでいたのに、イエス・キリストが語られたことばの意味が、チンプンカンプン・何のことかわからないので、トンチンカンな反応をします。
「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることが出来るのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることが出来ましょうか。」

 イエス・キリストは、続けられます。
「まことに、まことに、あなたに告げます。
 人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることが出来ません。」

「水と聖霊のバプテスマ(洗礼)」を受けて、主なる神のことがわかり、罪がゆるされ・きよめられ、神の国に入る(神の国の国籍を持つ)ことが出来るのですが ━━ 指導者・教師・インテリであるはずのニコデモには、ますます、何が何やらわかりません。

 でも、ニコデモがりっぱだったのは、知ったかぶりをして、自己防衛・自己弁護をしなかったことです。
「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
 イエス・キリストは、答えて言われます。
「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことが わからないのですか!

 そうなんです。いくら知識を頭に詰め込んでも、かしこそうに見えても、主なる神に関することは、人の知恵や知識では読み解けません。神のことは、神ご自身によってしか読み解けません。

 それで、主なる神の側から、愛する私たち人類に、「啓示の書」として与えられたのが 「聖書」 です。 (「啓示」とは、おおいを取りのけること)
 聖書は、主なる神から、私たちに与えられた「愛の書」。いわば、ラブレターです。

 聖書全体が、神からの啓示の書ですから、主なる神を信じていない人には、聖書をいくら読んで・頭に詰め込んでみても、「天地創造」も・「復活」も・「奇蹟」も、わかりません。
 おとぎ話や ごまかしや 思いこみ にしか思えません。

「進化論」 を科学的で、真理だと思っている人が、いくら聖書を読んでみても、「天地創造」の真理に到達することは出来ません。そもそも、前提が違っているからです。

 あの、ユダヤの指導者で・コチコチのパリサイ人(びと)だったニコデモは、その後、心の目が開かれて、新しく生まれ変わって(新生して)、クリスチャンになったようですよ。

 ( ガーデンミュージアム 比叡にて by yasu )
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2013年11月08日

ヴィクトル・ユーゴーの言葉

● ヴィクトル・ユーゴー(1802〜1885 フランス 詩人・小説家・代表作「レ・ミゼラブル」)

「 愛することは 行動することだ。」

※ 「愛してる!」 「I Love You !」
と100回言われても、行動が伴っていなければ、何をかいわんや、ですよネ。

 いくら、ことばや口先だけで、「愛してる!」 などと言われても、言われている当人が、「愛されている!」 ということを実感できているのでなければ、言っている方の自己満足だけです。
 これでは、「愛している」 ことにはなりません。

 聖書には、次のように記されていますよ。
「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」   (ヨハネの手紙 第一 3:18)

「愛」 とか 「愛する」 ということは、具体的なものです。行いと真実を伴ったものです。
 相手が、「愛されている!」 と感じ、相手の方から 「愛されている!」 「You love me !」 「ありがとう!」 と口にするはずのものですよネ。

 今から400年余り前の、キリシタンの時代には、「愛」 とか 「愛する」 という言葉は、聖書でいう 「愛」 とは違った意味をもつ言葉でしたので、 「ご大切」 とか 「大切にする」 という言葉に訳して使いました。

「あなたは私にとって、大切な人です。」
「私はあなたを、大切にします。」

「愛」 「愛する」 という言葉は、いろんな意味をもった、かなりあいまいな内容の言葉ですが、「大切」 「大切にする」 という言葉は、具体的で、行動と真実が伴わなければ、使うことが出来ませんよネ。

「愛する」 ということは、相手を大切に考えて、相手に対して・具体的に、真実に行動することです。

 主イエス・キリストが語られた 「よきサマリア人(びと)」 の話 があります。

● ある人(ユダヤ人)が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われました。
 強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、奪うべき物はみんな奪って、そのあと、その人をなぐりつけ、半殺しにして逃げて行きました。

 そこへ、たまたま、ユダヤ教の祭司がひとり、その道を下って来ましたが、死にかけている人を見ると、道の反対側に行って、通り過ぎて行きました。
 つづいて、同じように、神殿で仕えているレビ人もやって来ましたが、その場所まで来て、傷つき・死にかけている人を見ましたが、やはり、道の反対側を通り過ぎて行きました。

 祭司もレビ人も、ユダヤ教の指導者・関係者たちでした。
 ふだんは、「愛」 とか 「愛する」 という言葉をひんぱんに使って、律法を守るようにと、人々を指導していた人たちでしたよ。

 つづいて、ユダヤ人から差別されていたサマリア人が、旅の途中、そこに来合わせて、傷つき・死にかけているユダヤ人を見ました。そして ━━
@ かわいそうに思いました。
A そばに、近寄って行きました。
彼は、何も、むずかしいことをしたわけではありません。
そばに、近寄っていったのです。近寄っていけば、次に何をすべきなのかが、示されてきます。
B 傷に、持っていたオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをして、応急の手当てをしました。

 するべきことをすると、又、次にするべきことが、示されてきます。
C 自分の家畜に乗せて、宿屋に連れて行き、介抱してあげました。

 しかし、この人にも仕事があります。そのために旅をしていたのですから。
D 次の日、彼はお金を渡して、あとのことを宿屋の主人に頼みます。
「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」
                     (ルカの福音書 10:30〜37)

 復習してみますと、このサマリア人が、祭司やレビ人と違ったのは、 「そばに近寄っていったこと 」 です。
 祭司やレビ人たちも、かわいそうにとは思ったはずです。しかし、決して、そばに近寄っていこうとはしませんでした。

「愛する」 とは、むずかしいことではありません。
 その人を大切に思って、その人に近寄っていくこと ・ そばにいくことです。
 その人の 「隣人(となりびと)」 になることです。

 そうすれば、次に何をすべきなのか、ということが示されてきます。そのことを、していくのです。そこから、真実の愛がスタートしていくのです。

 主イエス・キリストのことばです。
「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の 隣人(となりびと)になった と思いますか。
 あなたも行って、同じようにしなさい。」

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2013年11月05日

ジョン・ロックの言葉

● ジョン・ロック(1632〜1704 英国 哲学者)

「何人といえども、力によってではなく、愛によって働く信仰を持たぬ者は、キリスト教徒ではない。」

※ 私たちの教会(阿武山福音自由教会)の主題聖句(聖書のことば)は、旧約聖書 「ゼカリヤ書」4章6節の言葉なんですよ。
 「 権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」
と、万軍の主は仰せられる。

 教会のことは勿論ですが、私たちの個人的なことであっても、主なる神にちょっとでも関わりのある事柄はすべて、私の力や知恵でやっていくものではないですよネ。
 私の力や知恵でやっていけば、主なる神がほめたたえられるのではなく、私自身がほめたたえられることになってしまいます。
 主なる神の栄光があらわされるのではなく、私の栄光があらわされることになってしまいます。

 私の個人的なことなら、私がほめたたえられてもよいのでしょうが、主なる神に関わりのあることで、私がほめたたえられてしまっては、お門違いです。

 たとえ個人的なことであったとしても、私の力や知恵は、私固有のものでもなんでもなく、主なる神から、賜物としていただいているものであって、そのような力や知恵を用いたにすぎませんから、個人的なことであっても、クリスチャンは、栄光を自分のものにしようとはしないと思いますよ。

 よく、外国のクリスチャンのサッカー選手が、ゴールを決めた後、ひざまずいて祈る姿を見ることがありますが、あれは、
「ゴールを決めることが出来て、感謝します。私があがめられるのではなく、このような機会を与えてくださった、主なる神さまがあがめられますように。」
と、栄光を神におかえししているんですよ。
(彼らの祈りを、聞いたわけではありませんが)

 主なる神さまにちょっとでも関わりのある事柄はすべて、私といつも共にいて・心に内住しておってくださる全能の神(聖霊なる神)から力をいただいて、全知の神から知恵をいただいて、このような私を用いていただいて、やっていくものなのです。

 主なる神の力や知恵でするからこそ、主なる神のなさるわざを体験させていただき・神のわざを見ることが出来るのです。神をほめたたえることが出来るのです。

 主なる神に関わることなのに、祈りの中で、主なる神に相談もなしに、勝手に、自分の力や知恵でやってしまってはいけないのです。的はずれです。間違いのもとです。

 一方、世の支配者たち・権力者たちは、正反対です。
 人々を支配し、彼らの上に権力をふるいます。
 有無を言わせぬ力で、又、巧妙な賢い知恵で、人々をリードしていこうとします。

 しかし、主イエス・キリストは言われますよ。
「あなたがたの間では、そうであってはいけません!
 あなたがたの間で、偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
 あなたがたの間で、人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべとなりなさい。」
                       (マタイの福音書 20:25-27)

「愛によって働く信仰だけが、大事なのです。」  (ガラテヤ 5:6)

 愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
 愛がないなら、何の値うちもありません。
 愛がないなら、何の役にも立ちません。

 愛を追い求めなさい。
 力によってではなく、愛によって、すべてのことをやっていきなさい。
 愛は、私たちを一つに結びつける帯として、完全なものです。

( ガーデンミュージアム 比叡にて by yasu )
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2013年11月03日

ヘンリー・クレイ・トランバルの言葉

● ヘンリー・クレイ・トランバル

「キリストを口であかししないこと、これほど大きな過ちはない。」

※ 「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
              (ローマ人への手紙 10章10節)

 実は、今日(2013.11.3)は、私たちの教会(阿武山福音自由教会)の橋本桃音(モネ・小学6年生)さんが、バプテスマ(洗礼)を受けたんですよ。 おめでとうございます!

「洗礼」は、主イエス・キリストが定められた、2つの聖礼典(サクラメント)の内の一つです。
 カトリック教会では「秘跡」として、他にもあるようですが、プロテスタント教会では、「洗礼式」と「聖餐式」の2つです。

 私たちの教会では、「浸礼」(しんれい)によるバプテスマで、司式者(牧師)によって、受洗者が一度、頭の先まで水の中に沈ませて、又水から出てくる形でなされます。
 これは、罪のからだが一度死んで、新たないのちに生まれ変わることを、象徴的に表しています。

 主イエス・キリストの言葉です。
「まことに(アーメン)、まことに(アーメン)、あなたに告げます。
 人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。
 人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」
                  (ヨハネの福音書 3:3、5)

 聖霊のバプテスマと、水のバプテスマを受けて、生まれ変わらなければ(新生)、天国には入れませんよ ━━ というのです。

「聖霊のバプテスマ」は、私たちが、イエス・キリストを「神であり、私の救い主である」と信じ・受け入れた時に、聖霊なる神がバプタイズ(baptize・洗礼を行う)してくださって、その時以来、私たちの心に内住してくださいます。
 しかし、このことは、本人は自覚し・わかっていますが、他の人には、目に見える形ではわかりません。

 人は、心に、イエス・キリストを「神であり、救い主である」と信じて、主なる神の前に義と認められ、罪に対するさばきからは解放されるのですが、それだけでは、まだ不十分です。義と認められる、というだけです。
 そのことを、私たちの口で告白することが、「救われる」ことの条件です。

「私は、主イエス・キリストを、神であり・救い主であると信じます!」
「私は、主イエス・キリストを信じて、新しく生まれ変わりました!」
「私は、天地を創造され、私にいのちを与え・愛しておってくださる、主なる神を信じます。信じています!」
「私は、これまで、仏教や神道を信じていましたが、今は、天地の創造者・主なる神を信じています! これからは、仏像や仏画などの偶像を、拝むようなことはしません!」
「私は、父・子・聖霊、三位一体(さんみいったい)の主なる神さまを信じます。信じています!」
・・・・・・・

 こうしたことを、口で告白していって、「救い」が完成していくのですが、そのことを、主なる神と人々の前で正式に行っていくのが、「水のバプテスマ」なのです。
 主イエス・キリストも、模範を示されて、そのようにするようにと、バプテスマのヨハネから「水のバプテスマ」を受けておられますが、このことは大切な意味をもっています。

「これまで信じていたもの・大切にしていたもの・罪の生活とは、きっぱりと縁を切って、これからは、主なる神の側にはっきりと立って、歩んでいきます!」
━━ という、「決意表明」なのです。

 そのように決意し、人々の前に表明していった私たちを、主なる神は愛し・恵み・祝福してくださり、
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 ━━ と言ってくださるのです。

 キリストを、「心では信じているんですよ。」と言いながら、公に口であかししないことは、大きな思い違いであり、主なる神の祝福をのがしてしまっているのです。
 まだ、「救われている」というところまでは行っていないのです。勿論、天国にまだ、入ることは出来ませんよ!

 ( ガーデンミュージアム 比叡にて by yasu )
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2013年11月01日

デック・ヒルズの言葉

● デック・ヒルズ

「キリストがおられない心は、収穫の場。キリストがおられる心は、働き人である。」

※ 収穫の秋ですよネ。そして、食欲の秋でもあります。
 秋の空気の中で、おいしくいただくことの出来る喜び・しあわせ!
 天高く、馬も人も肥ゆる秋。どれを食べてもおいしいので、困ってしまうほどです。

 暑い夏を過ぎ、秋の到来を待っていたように、果物たちが収穫され、店に並べられていきます。
 桃・梨・みかん・ぶどう・柿・りんご・いちじく・・・・・

 野菜や木の実たちも収穫され、店に並び・声かけしてきます。
「今が一番しゅんで、おいしいよ!」
 じゃがいも・さつまいも・とうもろこし・かぼちゃ・まつたけ・しいたけ・栗・ぎんなん・れもん・柚子・・・・・

 そして、まもなく、お米・稲がしっかり実りを終え、刈り入れの時を迎えます。
 店には、早や、今年の新米が出回っていますよネ。

 天地を創造された主なる神は、「収穫の主」でもあられます。
「実りは多いが、働き手が少ない。」 と言われています。
「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」 とも言われています。

 これらの主イエス・キリストのことばは、私たちの心のこと・魂のことを言っておられるのですが、私たちの心・魂も、種がまかれ、その種が実っていき、収穫することが出来るまでに育っていくような、心・魂でなければ、生き生きとした・いのちが息づいている心・魂とは言えないのかもしれませんよ。

 主イエス・キリストは、よく、聞く人たちにとって身近な事柄をたとえ話にして、教えられました。
 種を蒔(ま)く人が、種蒔きに出かけていきました。
@ 道ばたに蒔かれた種がありました。しかし、鳥が来て食べてしまいました。
※ 神のことばを聞いても、悟ろうとしないと、神に敵対する悪い者(悪魔)が来て、その人の心に蒔かれた神のことばを奪っていき、神を知ろうとさせないようにしてしまいます。

A 土の薄い岩地に蒔かれた種がありました。すぐに芽を出したのですが、土が深くなかったので、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまいました。
※ 神のことばを聞いても、しばらくの間そうするだけで、困難なことが起こると、すぐにつまずいて、神のことばからはなれていきます。

B いばらの中に蒔かれた種がありました。しかし、いばらが伸びて、ふさいでしまいました。
※ 神のことばを聞いても、この世の心づかいや富の惑わしのために、神のことばをふさいでしまって、実を結ぶことが出来ません。

C 良い地に蒔かれた種は、30倍・60倍・100倍の実を結んでいきました。
※ 神のことばを聞いて、それを悟り、多くの実を結んでいきました。

 主イエス・キリストを信じていなくて、罪とさばきの問題が解決していない心・キリストがおられない心には、御霊(みたま)の実である、愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制の、収穫できるような実りを期待することは出来ません。
(罪の実 ━━ 不品行・汚れ・好色・・・・・ などの実は、いっぱい結んでいくでしょうが)

 すでに「キリストがおられる心」の人は、よき働き人となって、まだ「キリストがおられない心」の人に、種を蒔き・世話をし・りっぱな実をみのらせて、共に収穫を喜び合うことが出来るようになりたいですよネ。

( ガーデンミュージアム 比叡にて by yasu )
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2013年10月26日

デーヴィド・リヴィングストンの言葉

● デーヴィド・リヴィングストン(1813〜1873 スコットランド 宣教師・医師・アフリカ大陸を横断した探検家)

「キリストの王国に関係あるもの以外に、私が持っているどのようなものにも価値を認めない。もし私の持っているものが御国(みくに)の益になるなら、神の栄光を増し加えるために、それを人に与えるか・自分の手に持っているであろう。
 私のすべての望みは、今も・そして永遠に至るまでも、神にかかっているからである。」

※ 私の持っている・大事にしている、数々のものがあります。
 以前に、私の持っていた・大事にしていた(過去形)ものは、まだまだたくさんありました。

「以前」といいますのは、私が、若い日(19歳)に、主イエス・キリストを「神であり・救い主である」と信じ・受け入れて、20歳の時にバプテスマ(洗礼)を授けていただいた、それ「以前」ということです。

 主イエス・キリストを、「私の神・救い主」と信じた時を境にして、私の価値観は、180度、変わっていきました。
 それ以前は、この世の価値観にどっぷりと浸っていましたから、「肉の欲・目の欲・暮らし向きの自慢など」(ヨハネ第一 2:16)で、心を満足させようとしていました。心の空洞を満たそうとして、多くの時間や労力やお金を使っておりました。
 いわば、数々の「もの」が私の偶像となって、大事にしていました。

 しかし、そのような、私を支配していたこの世の価値観が、イエス・キリストを中心とした、神の価値観・聖書の価値観に変わったのです。そして、心の空洞は、神の愛と恵みと祝福によって、満たされていったのです。

 この時期の、象徴的なこととして、次のようなことがありましたよ。

 私は小学生の頃から、「切手のコレクション」を楽しみにしておりました。
 こづかいをはたいて、切手を手に入れ、透明のセロハンで一枚一枚つつみ、ストックブックに大事に入れて・眺めるのを楽しみにしていました。
 百貨店(デパート)の古切手売り場にもよく出かけ、買うことが出来るものを選び出し、手にすることが出来た喜び!
 少しずつ増えていって、かなりの量になっていたのですが・・・・・

 キリスト信仰をもつようになって、これまでかけがえのないものであった貴重な「切手」の数々が、私の心をとらえなくなってしまいました。値打ちのあるものではなくなってしまったのです。

 この蒐集した切手をどうしよう? そのまま処分してしまっても、惜しくはないのだけれど
・・・・・。
 結局、その切手コレクションのストックブックを持って、近くの小学校の校門の所に行って、通りかかった子どもに、
「切手を集めたものなんだけど、いるんならあげるけど、いるかな?」
とたずねて、全部、その子にプレゼントしてしまいました。

 使徒パウロは、次のように言っています。
「私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」    (ピリピ書 3:7−8)

「ちり あくた」は、かなり過激ですが、パウロも私も、これまでの価値観が変わってしまったのです。
 この世の価値観から、神の価値観・聖書の価値観に変わってしまったのです。

 主なる神の目に叶ったもの、というか、聖書のことばに叶ったものにしか 反応しない ━━ これだと、まちがいがありませんし、物との関係が、随分、simple になっていきました。
 そして、シンプルなのに、余計なものがどんどん除かれていって、真の充実感を味わうことが出来ているんですよ!

「何も持たないようでも、(大切なものは)すべてのものを持っています。」
                     (コリント 第二 6:10)

 ( ガーデンミュージアム 比叡にて by yasu ) 
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2013年10月22日

エドガー・A・ゲストの言葉

● エドガー・A・ゲスト

「耳でだけ説教を聞くより、この目で説教を見たい。
 ただ正しい道を教えるだけの人より、正しい道をともに歩く人がほしい。
 そして、何にもまして望ましいのは、説教者たちが、彼らの信条どおりに歩むことだ。
 なぜなら、だれもが必要としているのは、正しいことが実行されているのを見ることだから。」

※ ザビエルと弥次郎との 対話 ・ 言行一致しているなら!

 日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは、1547年12月7日頃に、マラッカで初めて、日本人・弥次郎と会いました。

 弥次郎は、かなりポルトガル語が話せましたので、通訳なしで、直接に、日本人と意志の疎通が出来たわけで、ザビエルは、弥次郎と出会ってから急速に、日本人や日本社会に関心を寄せていくことになります。
 短期間のうちに、弥次郎から、日本に関する必要な情報を得、日本宣教の可能性を判断し、日本行きの可否を決断していくことになりました。

弥次郎と初めて会って、一か月後の、ザビエルの手紙

「私は、弥次郎に向かって、もし私が彼と共に日本へ行ったら、日本人は、はたして信者になるであろうかどうかを、尋ねてみた。

 彼の答えるところによると、日本人は直ぐに信者になることはないであろうけれども、まず始めに多数の質問をするだろう。
 それから、私の答えと、私にどれほどの知恵があるかを研究する。
 そして、何よりも、 私の生活が、私の教えるところと一致しているかどうか を、検討するであろう。

 つまり、討論において、私が、彼らの質問に満足な答えを与えると共に、私の生活ぶりに非難する点がないという、この二つのことに及第すれば、おそらく、こんな試験期が半年ほど続いて後、国王を始め、武士も、思慮のあるすべての人達も、キリストへの信仰を表明するようになるであろうと言う。
 弥次郎の言葉によると、日本人は、理性のみに導かれる国民だと言う。」

※ 主イエス・キリストは、群衆や弟子たちに、当時の宗教指導者であった・律法学者やパリサイ人(びと)たちについて、このように話されましたよ。
「彼らが、あなたがたに言うことはみな、行い・守りなさい。
 けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」

「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。」とも言われて、 「偽善者」 として13項目にわたって、くり返し・厳しく、糾弾されています。   (マタイの福音書 23章)

 これは、ユダヤ教の指導者たちのことで、クリスチャンではありませんが、キリスト教の指導者やクリスチャンが同じようであったとしたら、大変です。

 使徒パウロは、若き献身者・テモテに対して、便りの中で、次のように勧めています。
「ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい。」

 又、パウロは、ピリピやテサロニケにあった諸教会のクリスチャンたちに対しても、
「私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように、私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」
「私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。」
 ━━ と、勧めています。

 主イエス・キリストも、「最後の晩餐」の席で、しもべの姿となられて、汚れた弟子たちの足を、一人一人洗っていかれました。 (洗足・せんぞく)

「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた、互いに足を洗い合うべきです。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」   (ヨハネの福音書 13章)

「みことば(神のことば)を実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」          (ヤコブの手紙 1:22)

( 弥次郎 と ザビエル / マラッカ )
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2013年10月21日

ジェレミー・テーラーの言葉

● ジェレミー・テーラー

「小さい罪というものはない。それは、神に抵抗するものであり、測りがたい・恐ろしい結果を招くかもしれないものである。時計の精密な内部構造にとっては、砂の一粒でも小さくはないのと同じように。」

※※ 今年(2013年)の7月1日にスタートした、このブログ 「この人の こんな言葉」 でしたが、 「100人のクリスチャンの言葉を、紹介出来たらいいなあ!」 と思って、毎日、コツコツやってきたのですが、今日(10/21)で、目標にしていた 100人目 になりましたよ。

 これからどうするかですが、まだまだ紹介したい方々の言葉を準備していただいていますので、のんびり・ゆっくりと、今まで通り続けていこうと思いますので、よろしくお願いします。

※ 有名な 「十戒」 ですが、映画のモーセ役のチャールストン・ヘストンや、パロ役のユル・ブリンナーを思い出される方も多いかもしれません。
 若い世代の皆さんには、何のことか、わからないかもしれませんが・・・・・。

 主なる神が、創造されたけれど、罪・悪を知ってしまった人間に対して、罪の基準として・犯してはならない基本律法として与えられたのが、「十戒」です。
 単なる禁止のための律法なのではなくて、祝福をのがしてしまうことにならないために、警告されているものです。

「罪」とは、私たちを創造し・愛されている主なる神や、私たちと同じように、主なる神によって創造され・愛されている人々(隣人・となりびと)を、悲しませたり・傷つけたり・損ねたり
・・・・・する不義(ただしくない)の行為です。
 実行される行為だけでなく、心のあり様(よう)も「罪」そのものです。

「罪」という時、小さい・大きいは関係がありません。
 小さい罪だから、見逃してもらえるだろう。だれもがやっている! ━━ などと、自己弁護してみても、それは自分だけに通用するだけのことで、「罪」であること・犯罪であることには変わりはありません。

「十戒」の第8戒 「盗んではならない」

 1円盗んでも・千円盗んでも・1万円盗んでも・・・・・「盗み」に変わりはありません。
 盗んだ額ではないですよネ。盗む心そのものが問われるのです。

 ということであれば、もはや記憶にはないんだけれど、親の財布からお金を失敬したこともあったかもしれませんよネ。それは、認めることにしましょう。・・・・・
 でも、殺したことはないよ! 絶対にないよ!! これは断言できる!!! ━━ と言われるでしょうか。

「十戒」の第6戒 「殺してはならない」

 主イエス・キリストは、言われましたよ。
「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者は、さばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟姉妹に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。
 兄弟姉妹に向かって、『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。
 また、『ばか者』と言うような者は、燃えるゲヘナ(地獄)に投げ込まれます。」
                       (マタイ福音書 5:21〜22)

 日本の国の法律では、許容範囲で・罰則はまぬかれても、主なる神の律法では、認められません。実際に人の生命を奪ってしまったというのは勿論のことですが、実行された行為だけではないのでしたよネ。

 人に対して、腹を立てた・「能なし」と言った・「ばか者」と言った・憎しみを持った・・・・・
そういう者も、「殺人」と同様に見なされます。心の中で、間違いなく、相手を殺しているのです。殺人の犯罪を犯しているのです。行為として実行されなかっただけのことです。
「最後の審判」の時に、ゲヘナ(地獄)に投げ込まれるとまで、言われていますよ。

 第7戒の 「姦淫してはならない」 はどうでしょうか ?

 主イエス・キリストは言われます。

「わたしは、あなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女(異性)を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
 もし、右の目が、あなたをつまずかせる(罪を犯させる)なら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。」

 不貞以外の理由で離婚したり、不貞のため離婚した相手と結婚するのも、姦淫の罪をおかすのだとも、言われましたよ。

 さあ、大変です !
 妻や夫・婚約者など、それ以外の異性を、特別な興味や関心をもって、眺めたり・心を向けたり・つながりを持っていったり・・・・・ することは、本人は勿論のこと、それが本や雑誌・写真・映画・DVDなどであっても・・・・・ 情欲をいだいて異性を見る者は、すでに心の中で姦淫の罪を犯したのです。
 やはり、ゲヘナ(地獄)へ投げ込まれると警告しています。

「罪」に、ゆるされる小さい罪というものはありません。
 それは、主なる神に反逆することであり、測りがたい・恐ろしい結果が準備されています。
 精密な時計の内部に、たくさんでなくても、たった一粒の砂がまじってしまっても、それだけで時計は狂ったり・動かなくなってしまうのです。

 ━━ という風に書いてきますと、「おどし」になってしまいますよネ。どうしろと言うんだ!
 実は、あなたには、どうすることも出来ません。
 きよいきよい主なる神の前には、義人(神の目で見てただしい人)はいないのです。ひとりもいないのです。
 すべての人は、神の前に、さばきを受けないといけない犯罪者・罪人(つみびと)です。

 このような、自分で自分をどうすることも出来ないような・神のさばきを受けるしかないような・罪人(つみびと)である私たちのために、身代わりとなって、十字架刑のさばきを受けてくださったのが、神の御子(みこ)イエス・キリストなんですよ。

 そして、信じる私たちに、いつでも・どこでも共にいてくださるように、キリストの霊と言われる聖霊なる神を、「助け主」(たすけぬし)として、私たちの心に送ってくださり(内住)、「何が罪であるか・義であるか・さばきについて」 ━━ 教え・示してくださっているのです。

 私たちは、その、内住してくださっている聖霊なる神の声に従って歩んでいる限り・その声を無視したりしない限り、主なる神の愛と恵みと祝福をいっぱいいただきながら、毎日を、歩んでいくことが出来るのですよ!

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2013年10月20日

スザンナ・ウェスレーの言葉

● スザンナ・ウェスレー

「あなたの理性を弱め、良心の敏感さをそこね、神についての意識をぼやけさせるもの、あるいは、霊的事がらを味気なくしてしまうもの、つまり、精神よりも肉体の力や権威を強めるものは、すべて罪です。」

※ 「罪」は、@理性を弱めます。A良心の敏感さをそこねます。B神についての意識をぼやけさせます。C霊的事がらを味気なくしてしまいます。D精神よりも、肉体の力や権威を強めます。
 つまり、「罪」は、私たちの理性・良心・信仰心・霊性・精神に、多大な影響を与えます。

「罪」は、私たちの心のうちに住みついています。
 主なる神によって創造された最初の人間(アダムとエバ)が、主なる神に罪(原罪)を犯して以来、すべての人類が、罪をもって生まれ、罪を内住させる存在となってしまいました。

「罪」は、私たちの良心をも汚してしまい、自分でしたいと思う善さえも行わないで、かえって、してはいけないと思っている悪を行っています。

 私たちに内住している「罪」は、肉の欲・目の欲・暮らし向きの自慢などに、私たちの興味と関心を向けさせ、それらの欲求を満足させていこうとします。
 私たちの目は、もう十分だ! と飽きるということはありません。
 私たちの体も、食欲・色欲・所有欲・金銭欲などで、飽きることを知らず、求め続けていきます。

「罪」は、私たちを、奴隷にしていきます。自由を奪っていってしまいます。
 最初はそんなつもりではないのに・楽しくやっていたはずなのに、いつしか、そのものの奴隷にされてしまっています。自由を、失くしてしまっています。

 簡単に、はなれることは出来ません。奴隷状態を続けていくしかありません。その方が、まだしも楽かもしれません。
 タバコの奴隷・酒の奴隷・食欲の奴隷・好色の奴隷・金銭の奴隷・権力の奴隷・暴力の奴隷 ・・・・・
「罪」の行き着く所は、死と 主なる神のさばきです。

 私たちは、ほんとうにみじめな人間です。
 この、「罪」がしっかりと内住していて、罪に支配され・奴隷とされてしまっているからだから、だれか、私を救い出してくれないでしょうか。

 私たちと同類の人間に、助けを求めてもダメです。彼らも、同様に「罪」に支配され・もがき・おぼれている罪人(つみびと)なのですから・・・・・。
 あなたを罪の奴隷から、あがない出して、奴隷解放してくれるのは、全能の・主なる神以外に、その力はありません。

 神であって、人として生まれてくださった主イエス・キリストが、私たちを罪の奴隷から解放し・自由を与えるために、私たちの身代わりとなって・十字架刑にかかり・罪のさばきを受けてくださって、私たちをあがない・奴隷解放してくださったのです。

 その主イエス・キリストを、「神であり・救い主である」と信じ・受け入れた私たちは、「聖霊のバプテスマ(洗礼)」を受けて、その時以来、私たちの心に、全能の聖霊なる神が内住してくださるようになりました。

 私たちの心に内住している、全能の聖霊なる神と罪(原罪)。
 聖霊の前では、罪は何の力もありません。罪の心は依然として内住していますが、力を発揮することは出来ません。
 内住の聖霊が、罪に対してブレーキをかけてくださいますので、私たちは、罪に対して勝利することが出来るのです。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれが、この死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。
 ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」
                                (ローマ 7:24−25)

 ( 大阪 能勢町にて by yasu )
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