2014年02月07日

【 患難 ・ 苦難 ・ 問題 ・ 試練 】

 クリスチャンの間で、 「 患難 ・ 苦難 ・ 問題 ・ 試練 」 の言葉の使われ方が、ごっちゃになってしまっている。単に、言葉の使われ方だけではないのだろう。きっちりとした線引きが出来ていないためだろう。

「 患難 ・ 苦難 ・ 問題 」は、そのことの中身や状況によって使い分けていることだけれど、「 試練 」とは別のことである。
「 試練 」という言葉・訳語がよくない。何か、主なる神が 「 患難 ・ 苦難 」を起こして、私たちを試み・練る ━━ という、トンデモないことになってしまう。

 主なる神は、患難・苦難を与える方ではなく、患難・苦難から、私たちを救い出す方である。 (使徒の働き 7:10) 
 主なる神は、患難・苦難をさえ、私たちを練る機会として、益にしていってくださるのである。

 主なる神が、「 患難・苦難・問題 」の原因ではない。
「 患難・苦難・問題 」は、創造主であられる主なる神の 天地創造・人間創造の時点では、存在しなかった。天地創造のわざは完璧で、「すべてよかった」のである。

「 患難・苦難・問題 」が存在するようになったのは、最初に創造された人間である アダムとエバが、主なる神に対して原罪を犯してしまった結果、罪・悪が人の中に入って来てしまい、人は罪・悪に汚され・支配され、そして 罪・悪を愛する者にさえ なってしまったのである。

 盗み・殺人・姦淫・戦争 ・・・・・ が 引き起こされるようになってしまった。
 完璧に創造された自然界も、秩序が損なわれてしまい、うめき・苦しむものになってしまった。
 地震・台風・津波・たつ巻 ・・・・・ が 引き起こされるようになってしまった。

 すべて、人間の始祖である アダムとエバが、主なる神に対して反逆し・原罪を犯してしまったのがスタートだった。
 そして、現在の私たちも その遺伝子を引き継ぎ、原罪をもった者として 誕生し・罪に支配され・苦しめられ・生をおくってきている。
「 患難・苦難・問題 」が、原罪の結果もたらされたものとして、残念ながら 避けることが出来ないこととなってしまっている。

 ああ、このまま、どうもしようがないままに 生きていくしかないのだろうか ?!

 主なる神が、私たち人間を 創造されたのではないのだろうか。
 この私に 生命を与え、誕生させてくださったのも、主なる神ではないのだろうか !
 主なる神は、「 愛 」のお方ではないのだろうか !!

 いえ いえ、主なる神は 真実なお方です。愛のお方です。
 人が、患難・苦難・問題を経験することは、残念ながら、避けることが出来ないこととしても、「 人が 原罪の結果 招き入れてしまったこととして、滅びるまま・苦しむままにしておこう。当然の罰だ 。」 ━━ などとは、思っておられません。

 そのような 大変な機会にも、神を愛する人々のためには、すべてのことを働かせて 益に導く ━━ と 約束してくださっています。 ( ローマ書 8:28 )
( 神を愛さない ・ 神など信じない ━━ という人たちは、当然のことながら、自分で なんとかしていかなくては なりませんが。)

 そして、どんなに困難に思える問題さえも、 「 脱出の道 」を必ず備えてくださる ━━ と 約束してくださっています。 ( コリント第一 10:13 )

 私たちは 願わくは、患難・苦難・問題 には会いたくない・経験したくはないわけですが、しかし、そのような患難さえも、私たちを練り上げる 貴重な機会として、 「 試練 」の時として、 主なる神は私たちを 導いてくださいます。

 患難が、私たちに 忍耐を生み出させてくれます。
 忍耐が、私たちに 練られた品性を生み出させてくれます。
 練られた品性が、私たちに 希望を生み出させてくれます。

 そして、信仰と共に、私たちに与えられ・内住しておってくださる 聖霊(なる神)によって、このような厳しい状況の中にあっても、神の愛が、私たちの心に注がれていることを 実感することが出来るようにしてくださいます。 ( ローマ書 5:3〜5 )

「 私は、大変なことを経験しましたが、そのことさえ、神さまは、感謝出来るように変えてくださいました !」と 告白することが出来るようにしてくださるのです。

 そして、私たちの このような経験は、同じような 患難・苦難・問題 を経験している人々のために、この私が用いられていく・寄り添っていけるようにさえ、してくださるのです。
 ( コリント第二 1:4 )

 愛であられ、私たちを愛しておってくださる 主なる神は、私たちが経験する 「 患難・苦難・問題 」さえも、私たちを愛する機会として・「 試練 」の時として、私たちを練り上げてくださいます。
 そして、主なる神の愛を確認し、感謝する時としてくださいます。

※ 但し、「 患難・苦難 」といっても、自分が罪を犯し、その結果として引き起こし・招いてしまったことは、話が別です。

 でも、そのような 罪が原因のことであっても、主なる神に 「 悔い改め 」て・おわびをするなら、罪を犯してしまった事実は消えませんし・結果に対する責任は果たしていかなくてはなりませんが、罪そのものは、主なる神は赦してくださり、そのことをさえ、万事を益に導いていってくださいます。
 でも、もう 同じように、罪を犯してはいけません。

※ 、「 患難・苦難・問題 」といっても、原罪の結果としてのものではなく、特別中の特別なケースとして、主なる神が原因で・主なる神の責任で起こされる 「 患難・苦難・問題 」があります。

 旧約聖書に出てくる ヨブ・ヨナ・エジプト王 パロ・姦淫と殺人の罪を犯した ダビデ などに対して、主なる神が 「ゴーサイン」を出して、自ら、患難・苦難を起こされました。
 それぞれ、目的が はっきりあってのことです。

 ヨブの、浅薄な・自己義認の信仰
 ヨナの、神中心ではなく・自分中心の誤った確信
 パロ王の、ごう慢な 絶対的権力
 ダビデ王の、罪を悔い改めようとしない心
 ━━ を、それぞれ砕いて、謙遜で・敬虔な姿に導くために、特別中の特別のこととして、主なる神自らが、「ゴーサイン」を出して 起こされた 患難・苦難でした。

 とはいえ、ヨブ・ヨナ・パロ・ダビデ ━━ といった一個人のために、まわりにいた どれほど多くの人たちが、多大な 犠牲・損失を経験し、ひいては 生命まで失う というようなことにまでなってしまったことでしょうか !

 こうしたことは、そうそう あってはいけないことですし、まして、あなた自身が このような扱いを受ける原因となり、まわりにいる 多くの人たちに 犠牲を払わせるというようなことがあってはならないことですよネ。

 こうしたことにならないために、クリスチャンは、常日頃から、内住しておってくださる 聖霊なる神に 満たされることを 大切に考えながら、その 全知・全能の 聖霊に教えられ・導かれながら、力や知恵を与えられて、毎日毎日を へりくだりつつ・忠実に 生きていくことが 大切なことですよ !

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2013年11月25日

【 いつも 喜んでいなさい 】

     いつも 喜んでいなさい。
     絶えず 祈りなさい。
     すべての事について、感謝しなさい。
     これが、キリスト・イエスにあって 神があなたがたに
          望んでおられることです。   
 ( テサロニケ 第一 5:16-18 )

● この聖書のことばは、主なる神を信じているクリスチャンに対して語られている言葉ですが、あなたが、クリスチャンでなければ、そんなのムリだよ! と思われるに違いありません。

 そうですよネ。「いつも喜ぶ」 なんて、とんでもない。いいことがあった時なら喜べる。
「絶えず祈る」 なんて、出来っこない。願い事がある時などに、神仏の宮に出かけて行って祈ったり、儀式の中で黙祷したりすることはあっても、回数にしたら、1年に何回あるのかな?
「すべての事に感謝」 なんて、ムリな話。感謝出来ないことに、口先だけで感謝しても、ウソになってしまう !

 まったく、その通りだと思いますが、主なる神さまを信じているクリスチャンは、そうではないんですよ。
 クリスチャンであっても、上に書いてある通りだ ━━ と思っておられる方があるとしたら、あなたの信仰が、的はずれになっていますので、神のみことば・聖書から、しっかり教えられ、内住してくださっている真理の御霊(聖霊なる神)に、きちんと教えていただきましょう。

「いつも 喜んでいなさい。」 とある、この「喜び」 は、この世が私たちに与えてくれる喜びとは違います。
「主にあって 喜びなさい。」 (ピリピ 3:1)
「いつも 主にあって 喜びなさい。」 (ピリピ 4:4)
 主にあって喜ぶ「喜び」 です。主の喜び・キリストの喜び、です。

 主イエス・キリストご自身が、言われています。
「わたし(イエス・キリスト)の喜びが、あなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」  (ヨハネの福音書 15:11)

 主なる神を信じ・受け入れているクリスチャンには、「主の喜び・キリストの喜び」 が、心のうちに与えられたのです。
 主なる神は、「喜び」に満ちあふれたお方です。 (詩篇 16:11)
 その、主なる神の喜びが、私たちの心のうちに満たされたのです。

 どのようにして ?

 私たちが、主イエス・キリストを、「神であり・救い主(ぬし)である」 と信じ・受け入れた時に、「聖霊のバプテスマ(洗礼)」 を受けて、全知・全能の「聖霊なる神」 が、私たちの心のうちに「助け主」 として入ってくださり、内住してくださるようになりました。
 私たちのからだは、「神の神殿・聖霊の宮」 となりましたよ。

 そして、私たちのうちに、御霊の実である、
愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制 ━━ の実を結んでいく者に、変えていってくださっています。

 これらはすべて、この世の与える 愛・喜び・平安 ・・・・・ ではありません。世が与えるものとは違います。
 「 主なる神の愛 ・ キリストの愛 」
 「 主なる神の喜び ・ キリストの喜び 」
 「 主なる神の平安 ・ キリストの平安 」
 ・・・・・・・・・・・・  です。

 主イエス・キリストは、「わたしの喜び」 を与えてくださいましたが、「わたしの平安」 についても、次のように語っておられます。
「わたし(イエス・キリスト)は、あなたがたに平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」 (ヨハネの福音書 14:27)

 主の 愛・喜び・平安 ・・・・・ / キリストの 愛・喜び・平安 ・・・・・ を、私たちの心のうちに与えてくださり、心に満たしてくださるのです。

 この、主の愛を・喜びを・平安を ・・・・・ 私たちから奪い去るものはありません。
 私たちは、この世で生活している限り、患難も・苦しみも・迫害も・危険も ・・・・・ さまざまのことが起こってきますが、主なる神から与えられ・心に満たしてくださっている、主の愛・喜び・平安 ・・・・・ は、ゆるがされることがないのです。
 あなたが、内住されている「聖霊に満たされている」限りは、大丈夫なのです。
 あなたは、何が起ころうとも、いつも、主にあって 喜んでいることが出来るのです。

「 いつも 主にあって、喜びなさい。」 喜び続けなさい。
 そのような、「わたしの喜び」 をあなたに与えています。
━━ と、主イエス・キリストはおっしゃっていますよ!

● 次に、 「 絶えず 祈りなさい。」 ━━ ということについてですが、誰に対して、祈るのでしょうか?
 クリスチャンの場合は、木や石などの偶像に対してではなく、「主なる神」 に対してですよネ。

「祈り」を、何か特別な形や内容が必要な、深遠で・瞑想的で・神秘的なものだと思っておられるとしたら、簡単には祈れないわけですから、「絶えず祈る」 などということは不可能です。
 一日あるいは一週間に何回か程度のものに、なってしまいます。

 聖書を通して、主なる神が教えておられる祈りは、そのような祈りではありませんよ。
「絶えず祈る」 祈りです。

 私たちが祈る対象のお方・主なる神は、どこか遠くにおられるのではないのです。実に、私たちの心のうちに、内住しておってくださるのです。
 私たちのからだは、「神の神殿・聖霊の宮」 だと、聖書で言われています。

 父・子・聖霊、三位一体(さんみいったい)の主であられる聖霊なる神が、私たちの心に内住しておってくださるのです。
 インマヌエル(神、われらと共にいます)のお方として、遠くではなく・そばにでもなく、実に、私たちの心のうちに住んでいてくださるのです。
 その、三位一体の主であられる神に祈るのです。

 私たちが、内住の聖霊なる神に導かれて祈る祈りは、芳しい香りとなって、天の御座におられる子なる神、イエス・キリストの所にまで立ち昇り、そのキリストのとりなしによって、キリストの御名のゆえに父なる神に届けられていくのです。
 父・子・聖霊、三位一体の主なる神が総がかりで、私たちの祈りを聞いてくださり、答えてくださるのです。

 私たちのうちに内住してくださっている神に祈るのに、それも、私たちを「神の子ども」と言ってくださっているお方に祈るのに、特別な準備・言葉・形式 ・・・・・ が必要でしょうか。
 
 子どもが、すぐそばにいるお父さんやお母さんに話をするのに、特別な何かが必要でしょうか。
 そばにお父さんやお母さんがいるのに、何も話しかけないで、黙ったままだとしたら、異常です。
「お父さん、・・・・・ 」 「お母さん、・・・・・ 」 と、ごくごく普通に・自然に話しかけます。聞いてもらいたいこと・お願いごと・感謝の気持ち など ・・・・・ 、いろいろ話しかけていきます。

 話しかけられたお父さん・お母さんの方も、子どもが話しかけているのに、聞こうともしないで・返事もしないで・黙ったままだとしたら、これまた異常です。
 親子の意志疎通がなされていないことになります。

「絶えず 祈る」 ということも同じです。
 私たちのうちにおられる(直接は、聖霊なる神にですが)三位一体の主なる神に祈るのです。話しかけるのです。絶えず 祈るのです。絶えず 話しかけるのです。
 賛美・感謝・願い・とりなし・悔い改め ・・・・・ なんでも祈るのです。話しかけるのです。
 子どもが、お父さんやお母さんに話しかけるように、話しかけるのです。祈るのです。

 父・子・聖霊、三位一体の主なる神が、総がかりで、私たちの祈りを聞いてくださり、答えてくださいますよ。
 いつ ? どんな形で ? ━━ それは、お楽しみ! すべてを最善に導いてくださる、主なる神さまにおまかせです。

● 次に、 「 すべての事について、感謝しなさい。 」 ━━ ということについてですが、これも又、「主にあって 感謝しなさい。」 ということですよネ。
 誰に対して、感謝するのでしょうか ? 主なる神さまに対してです。

 あたり前に思っていることも、ちょっとしたハプニングやトラブルがあると、とたんに、あたり前のことではなかったんだ ━━ と、思い知らされます。

 歩けるのがあたり前・走れるのがあたり前・物を持つのがあたり前・自転車に乗れるのがあたり前 ・・・・・ だと、今年(2013年)の6/13に、ギックリ腰になるまでは、そう思っていましたよ。
 9/10には、妻が、足の肉離れを起こして歩けなくなり、これ又、いろんなことが、あたり前ではなくなりました。

「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」  (ヨハネの手紙 第三 2節)
 健康も又、天地万物の創造主である、神さまからのプレゼントであることがわかります。

 クリスチャンは、毎日のように、「主の祈り」 を祈ります。これまで、合計すると、何回・何万回、祈ってきたでしょうか。
「私たちの日ごとの糧(かて)を、きょうもお与えください。」
 毎日の食べ物も、あたり前だとは思わないで、今日も与えられるようにと祈っています。

 毎食の、食事の前には、「食前の祈り」 をささげてから、感謝していただいています。
 感謝していただくと、おいしいものが、よけいにおいしくいただけます。

 自分たちのためだけでなく、今なら、大被害を受けて、食べる物にも窮されているフィリピンの人たちにも、「きょうの糧をお与えください。あすの糧もお与えください。」 と祈っています。

 毎日、太陽が上ってくるのも、必要な雨が降るのも、野菜や果実が育つのも ・・・・・ 私が生きていることも ・・・・・ 私が才能だと思っていることも ・・・・・ すべてが、決して、あたり前のことではありません。

 心臓が動いていることも、呼吸していることも、吸うべき空気があることも、その空気の中に絶妙なバランスで、必要な酸素があることも ・・・・・ すべてが、決して、あたり前のことではありませんよ。

「あなたは、何か、もらったものでないものがあるのですか。
 もし もらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」
                   (コリント第一 4:7)

 すべてのことが、天地万物の創造主である神さまからのプレゼントです。
 こうしたことを、しっかりと認識して、すべての事について、主なる神に感謝するのです。

 避けることの出来ない災害や患難さえも、感謝します。
 患難は、経験したくはありませんが、そのことさえも、
「神を愛する人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる。」  
   (ローマ 8:28) ━━ と、約束してくださっています。

 そのような患難さえも、試練の時・私たちを練り上げる時として、益に導いてくださいます。
 患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が、希望を生み出していくように導いてくださるのです。

 そして、そのような私たちの経験さえも生かして、同じような苦しみの中にいる人たちのために、用いてくださるのです。

 すべての事について、主にあって 感謝しなさい。
 これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに望んでおられること ━━ なんですよ !

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2013年11月21日

【 愛する 友へ 】

          若い日に、キリスト教会に集い、洗礼を受けていたけれど、
        その後、教会から離れてしまい、そのうち、悪習慣に染まっていき、
            今、再び、立ち返ろうとしている 愛する友へ


● あなたの、今の心の状態は、まさに、新約聖書「ローマ人への手紙」7章14〜25節そのままだと思いますので、まずその個所を、読んでみてくださいますか。

「私(使徒パウロ)のうちに住みついている罪」(原罪) がわかりますか。 内住(ないじゅう)の罪 です。
 天地創造の時点で、最初の人間(アダムとエバ)が創造された時にはなかったものです。

 人間の始祖であるアダムとエバが、主なる神の警告を破って反逆し、「善悪の知識の木」の実を取って食べ、悪を知る者・悪を受け入れる者・悪を愛する者 となってしまい、それ以来、すべての人類が、罪(原罪)の遺伝子をもって誕生する者となってしまったのです。

 この内住の罪(原罪)の力は強力です。良心さえも汚し・従えるほどに、私たちを導き・支配していきます。罪の奴隷にしていきます。
 この力から解放されたいと思って、修養したり・修行したり・本を読んで学んだり・講習を受けたり・いろんな宗教の門をたたいたり ・・・・・ しても、根本の解決・解放はありません。

 だとしたら、どうしたらいいのでしょうか。
 使徒パウロも、絶叫しています。
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」

 人の力や知恵ではダメなんです。出来るのならすればいいのですが、ムリなんです。
 それほどに、簡単な問題ではないのです。
 私のうちに住みついている、強力な「内住の罪」(原罪)は、それよりも強力な力によってしか、解決・解放されません。

 使徒パウロは、続けます。
「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」
「内住の罪」に勝利して、解決・解放を与えてくださる、より強力なお方は、「主なる神」以外にはありえない、それほど大変なことなのです。
 主イエス・キリストは、そのために、世に来てくださったのです。 (クリスマス)

 それでは、主イエス・キリストはどのようにして、罪に支配され・奴隷になってしまっている私たちを、罪から解放してくださるのでしょうか。
 私たちの心の中に、罪が内住していて・支配してしまっているのですから、私たちの心の中に入ってきて、内住してくださらなければ、解決がありません。

● 実は、若い日にキリスト教会に集い、洗礼を受けておられるあなたには、すでに、 全能の「聖霊なる神」 が内住 されているのです。
 聖霊なる神によらなければ、「イエス・キリストが神であり、救い主(ぬし)である」 と信仰告白することは出来ません。

 生まれたままの私たち人間には、すでに罪が内住して働いていますから、口が曲がっても、「イエスは主です」 (イエス・キリストは、神です。救い主です) と口にすることは、ありえないのです。
 あなたが、そのように信仰を告白し、洗礼を受けられたのは、聖霊なる神(キリストの霊 とも呼ばれます。)が、そのように導いてくださり、あなたがそれを受け入れたから実現したことなのです。

 受けられたのは、「水の洗礼」でしたが、実は、あなたが、イエス・キリストを信じ受け入れた時に、 「聖霊のバプテスマ(洗礼)」 を受けておられて、全知・全能の聖霊なる神が、あなたの心の中に入ってくださり、内住してくださるようになったのです。
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」   (コリント 第一 3:16)

 全知・全能の聖霊なる神が、新たに内住してくださいましたので、先に内住している罪(原罪)は、もはや、私たちを支配し・力を発揮して従わせるということが、出来なくなっているのです。
 罪の力がいかに強力だといっても、全能の聖霊なる神の相手ではありません。

 私たちに求められていることは、その 「聖霊に満たされなさい。」 満たされ続けていなさい ━━ ということだけです。 (エペソ 5:18)
 こうして、若い日のあなたは、まちがいなく、心の罪に対して、勝利の生活をされていたのです。

 しかし、その後、教会から離れてしまい、丁度、イエス・キリストのたとえ話 「放蕩(ほうとう)息子」 (ルカの福音書 15:11-24)のように、主なる神のもとを離れていき、心の中には、いばらが伸びてしまって、心をふさいでしまいました。

 聖霊なる神が内住されなくなったわけではありませんが、神の神殿である心は荒廃してしまい、再び内住している罪が力を発揮していき、あなたは悪習慣に染まっていき、罪の力に支配され、罪の奴隷となっていきました。

 あの放蕩息子は、最悪の事態にまでなった時に、我に返って、立ち上がって、父のところに帰って行って、こう言いました。
「お父さん。私は天に対して罪を犯し、また、あなたの前に罪を犯しました。」
 悔い改めて、方向を転換・修正して、主なる神の方に向きを変え、進んでいったのです。

 心から、いばらが取り除かれ、聖霊の宮として再び整えられ、内住してくださっている、全知・全能の聖霊なる神が働き始められ、罪の力が弱められていきました。
 主なる神が与えてくださる平安が、再び与えられていくようになりました。

 私たちは、心が、罪(原罪)ではなく、聖霊なる神の住まいとしてふさわしく、聖霊に満たされている状態にしておかなくてはなりません。

● 聖霊なる神が内住されていることは、まちがいがありませんから、今後、罪の思いが出て来て支配されそうになったら、ただちに・すぐに、「神さま、助けてください。罪の心が起こってきています。私にはどうも出来ません。
 全能の神さまが勝利させてください。この罪の心に勝利させてください。あなたにおまかせします!」

 ━━ 「神さま、助けてください!」 と祈ってください。 内住されている神さまに、助けを求めてください。
 内住されている聖霊なる神は、全能のお方です。
 内住している罪(原罪)の力がいかに強力だといっても、主なる神には勝てません。
 ━━ そして、あなたは、主なる神による平安に導かれますよ。

 又、くり返し、罪の心は、あなたを誘惑してくるはずです。
 でも、そのたび毎に、すぐに、同じことをくり返してください。
 一歩一歩、だんだん、罪の心は弱くなっていくはずです。

 でも、こうしたことは、強力な全能の神だから可能なことであって、人間的ないかなる力や知恵でも、確実な勝利を得ることは出来ませんよ。

 主なる神の祝福が、あなたの上に、豊かにありますように。
 God bless you ! God bless us !

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2013年11月12日

【 クリスチャンである あなたへ 】

●  一人の時は        内住の主 !
  二人以上の時は     臨在の主 !
  いつも・どこにいても  インマヌエルの主 ! (神は私たちとともにおられる)

 ━━ このことを、聖書から、正しく・しっかりと認識し、実感できますように。

※ 内住の主
 私たちが、イエス・キリストを 「神であり、私の罪とさばきからの救い主」として信じ・受け入れた時に、「聖霊のバプテスマ」を受け、その時以来、「助け主」(たすけぬし)として「聖霊なる神」が、私たちの心に内住してくださっている ━━ ということは、基本の基ですよネ。

 このスタートの教えをあいまいにしていて、コリント教会の人たちがそうであったように、パウロ先生から、 「こんなことが、わかっていないんですか!」 と言って、叱られませんように。

・ あなたがたは、神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを 知らないのですか。  (コリント 第一 3:16)
・ あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、 知らないのですか。  (同 6:19)

・ もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。
 キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。  (ローマ 8:9)
・ 御霊によって歩む、御霊によって生きる、御霊に導かれて進む。
                (ガラテヤ 5:16, 17)

※ 臨在の主
 天の御座(みざ)に着いておられる父なる神。その右の座に着いて、私たちのためにとりなしておってくださる子なる神、主イエス・キリスト。そして、私たちの内に内住しておってくださる聖霊なる神。
父 ・ 子 ・ 聖霊 なる、三位一体の 唯一の神が、この所に臨んでいてくださいます。
二人以上のクリスチャンが集まっている所に与えられる、特別の恵みです。
(あまねくおられる、という「遍在」ではありません。)

・ もし、あなたがたのうち二人が、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
 二人でも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。
                    (マタイの福音書 18:19-20)

※ インマヌエルの主  (「神は私たちとともにおられる」という意味)
 私たちが、どこにいても ・ いつでも、主なる神は、私たちを愛し・守り・導いておってくださいます。 神さまと いつもいっしょ !

・ たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。   (詩篇 23:4)
・ 見よ。わたし(三位一体の主イエス・キリスト)は、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。    (マタイの福音書 28:20)

 God bless you !  God bless us !

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2013年11月10日

【 三位一体の 主なる神 】

「 三位一体(さんみいったい)の神 」 を信じているのが、キリスト教です。
「神」を信じている ━━ と言っても、いろんな神があるわけで、「三位一体の神」を信じているのでなければ、それは、別の宗教です。キリスト教ではありません。

 同じように、聖書(特に旧約聖書)を用いていると言っても、「父 ・ 子 ・ 聖霊」が、三(み)つにして唯一の神であることを信じているわけではありません。
 ユダヤ教も、イスラームも、ものみの塔・エホバの証人 も、キリスト教ではありません。
 決定的に、一番重要な部分で違っていますので、別の宗教です。

【 三位一体の神 】 について、考えてみましょう。

 旧約聖書では、三位(さんみ)の神 ━━ 父・子・聖霊 について、分けて表現していません。
 旧約聖書の原語であるヘブル語では、「神」は 「エロヒーム」 で、複数形です。しかし、「神々」ということではなく、エロヒームを受けている動詞は単数形です。
 自らのことを、「われわれ」と言われる「エロヒーム」は、唯一の神なのです。

 旧約聖書 「創世記」 の最初の最初 のことばです。
「初めに、神(エロヒーム・複数形)が天と地を創造した。(単数形)」
 そして、最初の人間を創造される時には、次のように言われています。
「さあ、人を造ろう。われわれ(複数形)のかたちとして、われわれ(複数形)に似せて。」

 この「エロヒーム」は、日本語聖書では、「神」と訳されています。
 この神には、固有の名前・御名(みな)があります。
 ヘブル語原語で、 「YHWH」 と記されていて、「聖4文字」と言われます。
 意味は、「わたしはある・あってあるものである」 ということなのです。

 私たち人間は、「あってないもの」 ━━ 絶対的に存在するものではありません。他に依存しながら、存在しているにすぎません。
「エロヒーム」なる神は、「YHWH」 「あってあるもの」。
━━ この「YHWH」なのですが、どのように発音していたのかがわかりません。

 旧約初期のヘブル人たちは、あの「十戒」の 第3戒 「主の御名を、みだりに唱えてはならない。」 を誤ってとらえ、「みだりに」 とあるだけなのに、ふだんからいっさい唱えないようにしたからです。
 でもそれでは、エロヒームに呼びかけて、祈ることさえ出来ません。

 それで彼らは、別の方法を考えました。目上の人たちに対して、敬意を表して用いる 「アドーナーイ」 という言葉を使って、置き換えて用いるようにしたのです。
「YHWH」 とある個所は、「アドーナーイ」と読み換えました。この「アドーナーイ」も、複数形です。
 「YHWH」という御名(みな)の エロヒーム
( 「アドーナーイ」という御名の エロヒーム )

 これは、ユダヤ人たちの話ですが、実際には、この「YHWH」は、どのように発音すればいいのでしょうか ?
 いろいろ研究がなされ、試みられていますが、「ものみの塔・エホバの証人」の皆さんは、「エホバ」と発音されています。
 これは、ガラチヌスという人が、1518年に言い出した読み方です。

 有名な「ハレルヤ」という言葉が、旧約聖書に何度も出て来ますが、これは、「ヤをハレルせよ」 「ヤハをほめたたえよ ・ 賛美せよ」 ということで、ヤもヤハも短縮形で、「YHWH」の「Y」 「YH」 の部分のことです。
 ものみの塔の人に、「ハレルヤは、ハレルエホバ となっているのですか。」とたずねますと、「いえ、ハレルヤです。」 ━━ ということでした。

 ということは、「YHWH」を 「エホバ」と読むのは、ちょっとムリな読み方のようで、「ヤ ・ ヤハ」が手がかりになりそうです。
 現代の研究者は、古代のユダヤ語の発音をいろいろ調べてみて、「YHWH」を 「ヤハウェ」 と読むことが、一番古代の発音に近いと考えています。

 そして、日本語では、 「主」 という言葉に訳しています。
 「主という御名の神」 「主なる神」
 「YHWH」という御名の エロヒーム
(「アドーナーイ」という御名の エロヒーム)
 「主」 という御名の神

 新約聖書の原語となったギリシャ語では、旧約聖書を訳す時に、
 「エロヒーム」 を 「セオス」
 「YHWH」 「アドーナーイ」 を 「キュリオス」 ━━ と訳しています。

 そして、新約聖書では、旧約聖書にはなかった 「父・子・聖霊」という言い方の「セオス」(神)が、登場してきます。
「神」も「主」も複数形であるわけですが、受ける動詞は単数だったわけで、唯一の神 ・ 唯一の主です。
 父なる神 ・ 子なる神 ・ 聖霊なる神。
 父も 子も 聖霊も 神ですが、別々の3つの神なのではなく、同一の本質の唯一の神です。

 このことを、いちいち説明しながら話すのは大変ですので、「三位一体(さんみいったい)の神」 と表現いたしました。
「三位一体の主」 「三位一体の神」 「三位一体の主なる神」 と言っているわけです。

 キリスト教の中でも、カトリック・プロテスタント・正教会などによって、細かい部分では聖書理解に違いがありますが(たとえば、マリヤのこと・聖餐のパンとぶどう液のこと・聖礼典の種類など・・・・・)、「三位一体の神」ということについては、一致しています。
 このことを信じていなければ、それはキリスト教ではないからです。

 これまでも、多くの「異端」と言われる人たちが現れました。
 特に、「キリストは、神ではない」 と主張することが多く、キリスト教界からは退けられていきました。

 キリスト教か ・ キリスト教でないか の違いは、「三位一体の 主なる神」 を信仰告白しているかどうかなのですが、イエス・キリストをどう見るかによって、端的に違いが出ますので、そのことで見分けることが出来ます。

 イエス・キリストは ━━
・ ユダヤ教では、ただの人間(犯罪者)。ナザレ出身の大工。自分を神と称した・不敬な・死刑に値する犯罪人。
・ イスラームでは、預言者の一人。しかし、自分を神の子と称して、唯一の神を誤って伝えた不完全な預言者。
・ 仏教など、他の宗教では、「キリスト教」の開祖。
・ ものみの塔・エホバの証人では、神ではなく、神の子ども。神(エホバ)によって最初に造られた被造物。
・ キリスト教では、神であり、預言されていたメシヤ(救い主)。

 子なる神、イエス・キリストについてこのような状態ですから、「聖霊なる神」になると、なおさらのことです。
・ ものみの塔・エホバの証人では、「聖霊」は、勿論 神ではなく、エホバの力(エネルギー)のことなのです。
 格をもった存在のように聖書に記されているのは、いわゆる擬人法の技法で記されているだけのことなのだそうですよ。

「子なる神、イエス・キリスト」も 「聖霊なる神」 も神ではない ━━ というのが、キリスト教以外のすべての宗教からの見方であって、このことで、キリスト教かどうかを見分けることが出来ます。

 ところで、「父・子・聖霊、三位一体の主なる神」 「三位一体の 主イエス・キリスト」ということなのですが、クリスチャンといえども、けっこう、あいまいにしかとらえられていないことが、実態のようです。
「この人、わかっているのかなあ?」 「この牧師さん、わかっておられるのかなあ?」 ━━ と思わされることが、しばしばです。

 何となく、「主」とか、「神」とか、「主なる神」とか、「主イエス・キリスト」 ━━ と言われているような気がします。
 はっきり認識し、実感するためにも、ただ「主」とか「神」とか言わないで、
・ 「三位一体の主」
・ 「三位一体の神」
・ 「三位一体の主なる神」
・ 「三位一体の子なる神・主イエス・キリスト」
・ 「内住の三位一体の聖霊なる神」
━━ という風に、「三位一体の」という言葉をつけて表現した方が、あいまいさがなくなり、意識もはっきりして、「主なる神」を実感出来ると思いますよ。

「初めに、父・子・聖霊、三位一体の神が天と地を創造した。」 (創世記 1:1)
「父・子・聖霊、三位一体の神は、実に、そのひとり子なる神をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子なる神を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」  (ヨハネの福音書 3:16)
「父・子・聖霊、三位一体の神は愛です。愛のうちにいる者は、三位一体の神のうちにおり、三位一体の神も、その人のうちにおられます。」  (ヨハネの手紙 第一 4:16)

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2013年10月28日

「 虫けらの ヤコブ 」 という 奇妙な言い方

● 旧約聖書の「イザヤ書」41章に、こんな訳で本当にいいの? という、神のことばがある。
 私たち人間のことを、主なる神が 「虫けら」 と言っているというのである?!
これって、本当に本当?? [新改訳 聖書]

「虫けら」という日本語は、@虫類を卑しめていう言葉 A人を軽蔑していう言葉
 ━━ 虫や人間を卑しめて・軽蔑して言う時に使われる言葉なのである。

※ 「新改訳聖書」の訳で、その前後の個所を引用してみると、
「わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ。
・・・・・
 あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、
『恐れるな。わたしがあなたを助ける』 と言っているのだから。
 恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。
 ━━ 主の御告げ ━━ 」      (イザヤ書 41章8−14節)

 主なる神が、私たちのことを、「虫けら」とさげすんだ言葉で言われている!!
 主なる神が、助けると言いながら、実は、私たちのことをさげすんで見ておられる ━━ こんなことは、主なる神として、絶対にありえない!!!

虫けら」と訳された言葉は、旧約聖書の原語であるヘブル語では、どうなっているのだろうか。

 この個所のヘブル語は、「トーレーアー」 で、原語のもともとの意味は、「なめる」こと。
「トーレーアー」のヤコブ。この「トーレーアー」を、どのような日本語に訳すのか、である。

 旧約聖書の他の個所の使用例と、新改訳聖書での訳 を見てみると、
@ 出エジプト記 16:20
 それ(マナ)に、トーレーアー(虫)がわき、悪臭を放った。
A 申命記 28:39
 トーレーアー(虫)が、それ(ぶどう)を食べる。
B ヨブ記 25:6
 [ビルダデの言葉] トーレーアー(うじ)である人間、トーレーアー(虫けら)の人の子はなおさらである。
C 詩篇 22:6
 私(ダビデ)は、トーレーアー(虫けら)です。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。
D ヨナ書 4:7
 トーレーアー(虫)が、その とうごまをかんだので、とうごまは枯れた。

「トーレーアー」は、一般的に、「這う小さな生き物で、骨がなく、たくさんの輪から成り、足はない」ものと思われるもののことで、新改訳聖書でも、普通は「虫」と訳されている。

 人が、自分のことをさげすんで言っている時には、「虫けら」 「うじ」 などと訳しているが、主なる神が、愛している・高価で尊いと言われている人間に対して、さげすんで「トーレーアー」 と言われているようなことはない。
「虫けら」という日本語に訳すべきというような、蔑視の言い方はされてはいない。
━━ あたり前のことである。

 というわけで、新改訳聖書の、「イザヤ書」41章14節の、「恐れるな。虫けらのヤコブ」の 虫けら は蔑称で、誤訳である。主なる神に対して、あってはいけない訳である。
 主なる神は、決して、私たち人間のことを、卑しい・軽蔑すべき存在だと言っておられるわけではない。

(私訳) 「恐れるな。虫のヤコブ」 「恐れるな。虫のようなヤコブ」
 意味は、 “ 小虫のような弱い存在である ヤコブ ” ということになる。

※ 私が使用している「新改訳聖書」の、イザヤ書41章14節
「恐れるな。虫けらのヤコブ」 の、けら の部分は削除 しました。

「恐れるな。虫のヤコブ」 小さく・弱い存在であるあなたを、わたし(神)は助ける!

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2013年10月02日

旧約聖書 「 ヨブ記 」についての 誤った 解釈 !?

 テーマに関する誤解ですが・・・・・

「ヨブ記」では、ヨブの信仰の実態を、明らかにするために、主なる神が GO のサインを出されて、サタン(悪魔)が道具として使われて、ヨブに次々と苦難を与えていきます。
 そして、完璧だと自負していたヨブの信仰の実態が、明らかにされていきます。

 そして、その結果として、ヨブは悔い改めて、より深い信仰へと導かれていくのですが・・・・・ これら、信仰者・ヨブに対してなされた事柄は、特別中の特別のケースです。
 これらのことを仕掛けた全責任者は、主なる神であって、その実行のために、神に協力したのは、サタン(悪魔)でした。

「ヨブ記」では、ヨブと友人たち4人によって、3章から延々37章に至る、35章に亘って、神や信仰に関する議論が続きます。
 これらは、後に、主なる神から、
「知恵もなく言い分を述べて、摂理を暗くする、この者はだれか!」 (38章2節)
と言って叱られるほどの、自分を義とし・ただしいとして展開される、議論のための議論のことばでした。

 主なる神は、これらの事に対して、彼らを叱られ、
 神に対する信仰は、人の知恵のことばで議論し・追求して、悟っていくものではない。創造主である主なる神を、創造の原点に立って、信頼して、すなおに信じるかどうか ━━ というだけのことである、ということを教えられ、ヨブも、その原点に、やっと立ち返ることが出来たのでした。
 ヨブは、主なる神の前に悔い改め、信仰を深め・成長させることが出来、大きな祝福をいただく者とされました。

 このように、自分は神の前にただしく・自分の信仰を完璧だと思っていたヨブに対して、そのうすっぺらな信仰の上っ皮・メッキをはがして、実態をしっかりと見つめさせるためにとられた方法は、あくまでも、特別中の特別のケースであって、こうした方法を、私たちにも適用して考えようとすると、とんでもないことになってしまいます。
 ましてや、信仰とは関係のない・別の事柄に重ねて考えていくとしたら、トンデモない 的はずれです。

 考えてもみてください。
 ヨブを襲った数々の苦難を仕掛けたのは、主なる神です。
 主なる神が、執行の許可を下されました。そして、そのことを実行していったのは、なんと、主なる神に敵対するサタン(悪魔)です。
 まさに、主なる神とサタンの協同の働きでした。
 勿論、全責任は、執行者であられる「主なる神」にあります。

 ヨブにしてみれば、「なぜこんなことが・・・・・?! 」ということになりますが、主なる神には、はっきりとした、ヨブに対する目的がありました。
 自己義認して、自分は完璧だ! ━━ と思っているヨブに、信仰の実態を自覚させ・メッキをはがして、本物の信仰へと導き、成長させることでした。

 しかし、間違わないでください。 
 このような方法で、主なる神がサタンと協同で働かれて、私たちを取り扱われるということは、ありません。
(あなたが、ヨブのような特別なケースだったら別ですが)

 私たちのまわりには、「なぜ こんなことが・・・・・?!」と思うようなことが、いっぱい起こってきます。
 東日本大震災がそうです。原発事故・竜巻被害・大雨による洪水・無謀運転による人身事故・爆発事故・おぞましい殺人事件 ・・・・・ たくさんの人たちが、死んでいっています。身内の者たち・親しい人たちが、被害に会って苦しんでいます。

「ヨブ記」の適用を誤ってしまいますと、
 こうした理不尽なことの、仕掛け人は ━━ 「主なる神」である! ということになります。
 これらのことに GO のサインを出し、許可を与えた全責任者は「主なる神」である! ということになりますよ。

 しかも、こともあろうに、それらのことの実行のためには、サタン(悪魔)を使用するのだ! 主なる神とサタンの協同作業なのだ!! ━━ という、とんでもないことになってしまうのです。

 こういう聖書理解・「ヨブ記」の理解は、とんでもない間違いです。

 ちょっと考えれば、わかることでしょ!?
 だれかを使って、人をなぐらせ・ケガをさせておいて、その人のところに行って、「痛かっただろう。大変だったネ。・・・・・ ケガの手当ては、私がちゃんとしてあげるからネ。」 ━━ と言っているような、とんでもない話になってしまいます。
「ありがとうございます。あなたは、何という親切な・愛にあふれた方なんでしょう!」
?????????

 すべての自然災害や、罪悪な行為や犯罪などは、主なる神による天地創造の時にはなかったことで、すべて、最初の人間・アダムとエバが主なる神に、とんでもない反逆の原罪を犯してしまってから、人間や自然・世界に起こるようになってしまったことでした。
 すべて、主なる神が原因なのではなく、人間自身・私たち自身に原因があることなのですよ。

 そのようなわけで、私たちが生きている限り、さまざまな患難を経験していくことになります。
 自分自身が罪を犯し原因を作ってしまって起こることは別として、さまざまな患難をさけることは、残念ながら、出来ません。

 しかし、神は愛です。愛であられるお方です。私たちを愛しておってくださいます。
 そうした患難さえも、私たちを練り上げる試練の時として、万事を益に導く ━━ と約束してくださっています。
 更に、どうしようもない患難に思えても、必ず脱出の道を備える ━━ と約束してくださっています。

 だれも、患難には会いたくありません。でも、自然災害は、私たちの力では避けられません。人的災害も、起こってきます。それらに、巻き込まれてしまうということも起こってきます。
 私たちが、生きている限り、さまざまな患難を経験します。避けることは困難です。

 でも、主なる神を信じ・愛している者には、主なる神ご自身が、 「万事を益に導く・脱出の道を備える」 と約束してくださっています。
 これらの患難をさえ、試練の時として、主なる神を信じて・愛して生きていくことが出来たら幸いです。主なる神は、患難をも、祝福に変えてくださいます。

 以上のことは、主なる神を信じ・愛している者に対する約束ですから、信じていない人たちは、理不尽な患難に対して、自分で納得のいくような答えを見つけていってくださいネ。

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2013年09月01日

【 主の祈り 】 を、文語から口語へ

● 阿武山福音自由教会では、この8月から、これまで日曜礼拝の時に、みんなで祈ってきた 「主の祈り」 を、文語から口語(新改訳聖書による)に変えていきました。
 (「使徒信条」 も)

 信仰経験の長い者や年配の者には、文語の「主の祈り」 は、独特の・深遠で・快い響きをもっていますが、現代の若い世代の人たちには、そうではないはずです。
 自分たちの心地よさだけに浸っていては、いけませんよネ。
 どうしても、文語で祈りたければ、個人の祈りの時に、そうすればいいだけのことですから。

(文語)    主の祈り 
  天にまします我らの父よ。
  ねがわくは、御名(みな)をあがめさせたまえ。
  御国を来たらせたまえ。
  みこころの、天になるごとく、地にもなさせたまえ。
  我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
  我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
    我らの罪をもゆるしたまえ。
  我らをこころみにあわせず、悪より救いだしたまえ。
  国と力と栄えとは、限りなく、なんじのものなればなり。
                  アーメン

(口語)    主の祈り  
  天にいます私たちの父よ。
  御名があがめられますように。
  御国が来ますように。
  みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
  私たちの日ごとの糧を、きょうもお与えください。
  私たちの負いめをお赦しください。
    私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
  私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
  国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。
                  アーメン
(キリシタンの頃)       
      パアテル ノステル  
  天にまします われらが御(おん)親、
  御名(みな)を たっとまれたまえ。
  御代(みよ)、来たりたまえ。
  天において、おぼしめすままなる如く、
  地においても、あらせたまえ。
  われらが日々(にちにち)の御(おん)やしないを
  今日(こんにち)、われらに与えたまえ。
  われら、人にゆるし申すごとく、
  われらがとがを、ゆるしたまえ。
  われらをテンタサン(誘惑)に
  はなしたもう事なかれ。
  われらを凶悪より、のがしたまえ。
                  アーメン

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2013年08月29日

聖書のことばによる 祈り

「絶えず 祈りなさい。」(テサロニケ人への手紙 第一・5章17節)
と勧められており、聖書の中に、「祈り」の実際例がたくさん記されているのですが、私たちは、そうした聖書の祈りの言葉で祈るのではなく、自分自身の言葉や考えで祈ってしまっています。
 自我のにおいが、プンプンする祈りです。
 それもいいでしょうが、ちょっと違うような気がします。

 もっと、聖書の祈りの言葉で祈る祈りが、多くささげられるべきではないのでしょうか?

●  詩篇119篇による祈り
 主よ。
 どんなにか私は、
 あなたのみおしえを、愛していることでしょう。
 これが一日中、私の思いとなっています。
 私は、世のすべての師よりも、悟りがあります。
 それは、あなたのさとしが私の思いだからです。
 私は、あらゆる悪の道から、私の足を引き止めます。
 あなたのことばを守るためです。
 私は、あなたの定めから離れません。
 あなたのみことばは、
 私の上あごに、なんと甘いことでしょう。
 蜜よりも、私の口に甘いのです。
 私には、あなたのみことばがあるので、
 わきまえがあります。
 それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。
 あなたのみことばは、私の足のともしび、
 私の道の光です。
 主よ。みことばのとおりに、私を生かしてください。
 私は、あなたのみおしえを忘れません。
 私は、あなたのさとしを、
 永遠のゆずりとして、受け継ぎました。
 これこそ、私の心の喜びです。
 私は、あなたのおきてを行うことに、
 心を傾けます。いつまでも。終わりまでも。
             アーメン

●  黙示録による 祈り

 聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな。
 神であられる主。万物の支配者。
 昔いまし、常にいまし、後に来られる方。

 主よ。われらの神よ。
 あなたは、栄えと、誉れと、力とを
 受けるにふさわしい方です。
 あなたは、万物を創造し、
 あなたのみこころゆえに、万物は存在し、
 また、創造されたのですから。

 ほふられた小羊は、
 力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、
 栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。

 御座にすわる方と、小羊とに、
 賛美と、誉れと、栄光と、力が、
 永遠にありますように。

 アーメン。
 賛美と、栄光と、知恵と、感謝と、誉れと、
 力と、勢いが、
 永遠に、私たちの神にありますように。
             アーメン

( Super Moon )
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2013年08月27日

〈 クイズ & Quiz 〉 【 聖書クイズ 】

1) 最初に造られた人間・アダムは、何歳で亡くなったか? [創世記5:5]
2) 人類史上、一番長生きした人は、何という人で何歳?  [創世記5:27]
3) 天地創造の順序 太陽・桜の木・鳩・羊・空・海・くじら ━━ では? [創世記1章]

4) モーセは、パロ王の心を変えるために、11の奇蹟をしましたが、いくつ言えますか?
   動物に関係あるものが、5つありますよ! [出エジプト記7〜11章]
5) 映画「十戒」で、紅海の水が、サーッと左右に分かれていくスペクタクルな場面があり、
   感動的ですが、これは、ホントかウソか? [出エジプト記14章]
6) 「十戒」 いくつ言えますか?
  “ H人間になってはいけない。” というのは、第何戒?
                       [出エジプト記20章]

7) 青年ダビデが立ち向かっていった、ペリシテ人の代表戦士・巨人の名前と、
   背の高さは?
                       [Tサムエル記17:4]
8) ソロモン王は、性的には、とんでもない、神に反する生活をしていましたが、
   妻やそばめの数は?
                       [T列王記11:3]
9) イエス・キリストが、〈救い主〉として、「ベツレヘム」で生まれるということは、
   誕生の700年前に預言されていましたが、何という書に記されていますか?    
                       [マタイ福音書2:1〜6]

10) イエス・キリストが、12月25日に、ベツレヘムの馬小屋で生まれたというのは、
    ホント?
                       [ルカ福音書2:1〜20がすべて]
11) イエス・キリストの12弟子の名前を、何人言えますか?
   (後から1人、変更がありましたよ。)
                   [マタイ福音書10:2〜4、使徒の働き1:15〜26]

[以下、答えは最後に]
12) 「旧訳聖書」「新訳聖書」 ―― まちがいを見つけてください?
13) 「聖書」は、全部で、何章?  何ページ?  どれくらいかかって読める?
14) 1章だけの書があります。 いくつあって、それは何々ですか?
15) 「聖書」の中で、一番長いのは? 二番めに長いのは?
    「新約聖書」で、一番長いのは?
    ちなみに、「聖書」の章の中で、一番長い章は? 一番短い章は?

16) 「聖書」の中の、有名なことばです。 ( )に、何がはいりますか?
    「( )を信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの( )も救われます。」
                       [使徒の働き16:31]
17) いつまでも残るものは、( )と( )と( )です。
    その中で、一番すぐれているのは( )です。 [Tコリント13:13]
18) イエス・キリストは、「わたしは、( )です。」と、11ほど言われていますが、
    いくつ言えますか?

19) 聖書の人物の、英語名は?
    ペテロ ・ シモン ・ アンデレ ・ マタイ ・ ヨハネ ・ ヤコブ ・ ピリポ
    アブラハム ・ イサク ・ ヨセフ ・ ダビデ
20) 「聖書」全66巻、最初の最初のことばは?  最後の最後のことばは?
                  [創世記1:1,ヨハネの黙示録22:21]

【解答】
12) 「旧約聖書」 「新約聖書」 神さまの契約の「約」
13) 「旧約聖書」39巻で、929章(1569ページ)
    「新約聖書」27巻で、260章(503ページ)
    「聖書」66巻で、1189章(2072ページ)  ※ 〈新改訳聖書の場合〉
    毎日、10章ずつ読んでいって、4か月かかります。
14) 1章だけの書は、5つあって、旧約聖書では「オバデヤ書」、
    新約聖書では「ピレモンへの手紙」「ヨハネの手紙 第U」 「ヨハネの手紙 第V」
    「ユダの手紙」
    ・ この「ユダ」は、キリストの弟のユダで、キリストを裏切ったイスカリオテの
      ユダではありません。

15) 一番長いのは、「詩篇」(150篇)。 二番めは、「イザヤ書」(66章)。
    新約聖書では、「マタイの福音書」「使徒の働き」が共に28章ですが、「マタイ」は
    1071節、「使徒」は1007節で、「マタイの福音書」が一番長くなっています。
   一番長い章は、「詩篇119篇」(176節)、 一番短い章は、「詩篇117篇」(2節)

18) すべて、「ヨハネの福音書」の中で、言われていますよ。
   キリスト・メシヤ(4:26) いのちのパン(6:35,48,51) 世の光(8:12,9:5)
   門・羊の門(10:7,9) 良い牧者(10:11,14) よみがえり・いのち(11:25)
   道・真理・いのち(14:6) まことのぶどうの木(15:1,5) 王(18:37)

19) Peter(ペテロ) Simon(発音注意・シモン) Andrew(アンデレ) Matthew(マタイ)
    John(ヨハネ) James(ヤコブ) Philip(ピリポ)
    Abraham(発音注意・アブラハム) Isaac(発音注意・イサク) Joseph(ヨセフ)
    David(発音注意・ダビデ)

( ノアの箱舟 復元 )
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