2014年04月22日

必読 【 大同美香さんからの 伝言 】 ( 5 ・ 終 )


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● 今は、自立フォーラムという作業所がメンバーを募集していることを知り、高校卒業した当時は、作業所に行っても両手がないから、何も出来ないと思って行かなかったけど、家にずっとひきこもっていてもつまらないし、外に出た方がいいと家族に勧められ、2006年の3月から自立フォーラムにお世話になっています。
 そこで出会ったメンバーさんや、スタッフの人と知り合うことができ、ちょっとずつ世界が拡がってきました。

 障害を持った人には、出かける時に付き添って介助してもらえるガイドヘルパーという制度があります。
 ガイドヘルパーの申請に市役所に行ったら、車椅子の人はつけられるけど、歩ける人はつけられないと断わられました。
 何度も足を運びましたが、「制度だから。」の一点張りで、結果は一緒でした。
 歩けるからという理由で、なかなかもらえなかったガイドヘルパーでしたが、ある人と出会ったことで、急展開が起こり、2008年10月から月に36時間と限られた時間だけど、つけてもらえることが出来るようになりました。
 今では家族が用事で連れて行ってもらえなくても、ヘルパーさんと行きたいところへ どこでも行けるようになりました。

 以上、私が今まで、出会ってきた人と、出会えたから出来たことを、話してきました。
 次に、中学1年の時に、書いた作文を読んでみます。

            人との出会い
 私のなやみは、みんなが私に、声をかけてくれないことです。
 しらん人にも声をかけて、返事をしてほしい。それで、みんなと友達になりたい。
 だから私は、しらん人に 「 こんにちは。どこ行くん。」 と声をかけています。
 でも、声をかけても、返事をしてくれる人は少ないです。無視したり、こわがってにげたりします。
 なんでかな? 私は考えた。私が、こわいからだと思います。手がないから、鼻がないから。
 でもなれてほしいと思います。
 この前行った、宿泊学習で、店の店員さんが、私を見たら、 「 ウワ――― 」 と、大声でさけびました。
 なんでさけんだのかな? ほかの人がいるのに、いややなァ と思いました。

 今、読み返してみると、正直な気持ちを、書いているなぁー と、思います。
 そして大胆にも、当時は私の方から、声をかけていたようです。 今では考えられないことです。
 望んで障害者に、なった訳ではありません。容姿はこうでも、普通の24歳の、女性です。
 友達と食事をしたり、ショッピングをしたり、友達とコンサートに行ったり、皆さんと同じことがしたいです。

 でも、私には、友達が出来ません。人は、顔ではなく、心が大事だというけれど、私の場合、心をわかってもらう前に、顔を見ただけで、避けられてしまいます。
 わかってもらう為の努力といったら、成形手術するよりないけど、もう痛くて怖い思いはしたくはないです。
 だから、以前は、理解してほしいと思ったけど、今は、手術を拒否している以上、仕方がないと、諦めています。
 でも一方で、人の心は、変わるものだと、信じています。
 小さい頃、私を閉じ込めていた両親が、今、こうして皆さんの前に、立つことを許してくれたように、私が変わるのではなく、周りの人が、変ってくれることを、信じています。

 これからは、福祉の時代だと、聞きます。
 バリアフリーが注目され、スロープが作られたり、エレベーターや、自動ドアの普及、障害者用のトイレが設置され、高齢者や障害者の人も、外出しやすくなってきています。もっともっと、障害を持った人が、社会に出るようになったら、それが、当たり前のようになり、ジロジロ見たり、避けたりと、いった、いわゆる、障害者に対する、世間の目も、きっと、変わってくれるだろうと、思っています。

 差別のない社会を作りましょう! などと、大きなことは言いません。
 唯、障害を持った人を見たら、避けたり、ジロジロ見たりしないで、作り笑いでもいいです。ニコッと微笑んであげて下さい。どんなに心が、救われるかしれません。
 そして、いつか皆さんが、落ち込んだ時、私の事を思い出して下さい。重い障害を持ちながら、前向きに生きている、私を思い出すことで、頑張ろう! という、気持ちになってもらえたら、嬉しいです。

 最後に加藤教授に出会えたのは個展でした。知り合いの方から勧められてギャラリーに足を運んで頂いたようですが、まさかスピーチを依頼されるとは思いもよりませんでした。
 今年4年目になるのですが、一向に上達せず原稿を読みながらの拙いスピーチですが、こうして皆さんと出会えたのは加藤教授と出会えたからです。

 どうか皆さんも素敵な出会いをして下さい。          2011年 10月追加

 ( 大阪城 )
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2014年04月21日

必読 【 大同美香さんからの 伝言 】 ( 4 )

                ※ しばらく 間があいてしまいましたが、
                 このページ 右列の 「 カテゴリ 」 の
                 ゲストの言葉 ( 大同美香さん )
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                 まとめて 見ていただくことが出来ます。
 ( 雨上がり )
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● そして20歳になるのを、機会に、両親の許しと、絵の先生の協力を得て、目標でもあった、個展を、20歳になったばかりの3月、京都の河原町通りにある、ギャラリー 「 賛 」 で、開くことが出来ました。
 京都 ・ 読売 ・ 朝日新聞に、載せてもらったせいもあり、沢山の人に見に来てもらえて、嬉しかったです。ギャラリーには、もう、何年も会っていない先生が、招待状のハガキを見て、足を運んで下さり、久しぶりにお会いできて、とても嬉しかったです。

 そして、最終日には、高校1年生の時の瓜生先生が、パーティーを、計画して下さいました。
 小学校から高等部まで、私を支えてくれた、先生達や友達が、出席してくれて、夢のような、一時を過ごさせてもらいました。

 そして聴講をやめてからは、パソコンの勉強を始めました。
 中学部の時の、加藤先生に、パソコンの先生である、漆崎先生を、紹介してもらいました。
 個展を開いたことを話すと、ホームページを、作ってあげると言って下さり、私のホームページを、持つことが出来ました。『 大同美香 』 で、検索してもらったら、出てきます。時間があれば見て下さい。
 ホームページを持つことによって、パソコンに夢中になり、退屈だった毎日から抜け出せました。
 でも今度は夢中になりすぎて、一日中パソコンに向かう日々になってしまいました。

 パソコンで絵を描いたりもしました。油絵の具だと人に手伝ってもらわないと描けないけど、パソコンなら手伝ってもらわなくても一人でかけるので、ますますパソコンに はまってしまいました。

 そして昨年の6月、絵を描き始めて10年になるのを機に、2回目の個展を開くことが出来ました。
 その年の8月、小学校の時お世話になった堀川先生から6泊8日でニューヨークに行かないかとお誘いを受け、ニューヨークとボストンに連れて行ってもらいました。
 私が6歳の時お世話になったアメリカ帰りの形成外科の先生から、
「 美香さんが1番不幸なことは火事に遭ったことです。
 2番目に不幸なことは日本で生まれたことです。
 アメリカだったら差別を気にせず生きていけます。」
と聞いて、アメリカってどんないい国なんやろう? と思って、アメリカに行く時は 絶対私を連れて行こうと決めていたそうです。

 実際に行ってみて感じたのは、ジロジロ見る人は滅多にいないから、人目を気にせずに歩けました。それどころか、初対面なのに、飛行機のチーフはジャンプをしてくれ、エレベーターで一緒になった人はパフォーマンスをしてくれたり、コンビニの店員さんは 私を子供だと思ったのか、毎日お菓子を下さいました。
 もし子供だと思われたとしても、日本で障害を持った子どもにそんなことはしないと思うので、やはりそんなことからも日本とアメリカは違うんだなと感じました。

 アメリカでお世話になったYさんが、日本とアメリカの障害者に対する違いを教えてくれました。
「 昨日 美香さんが日本語学校に来てくれたでしょ。その後生徒の1人があの子どうしたの? と聞いたから、火事にあったんだよって言ったらフーンと言うだけだった。
 それに うちの子は自閉症ですって言ったら、日本なら大変だねとか言われるのに、こっちの人は だから何って顔されるだけ。」 と言っておられました。

 それと、アメリカは 障害者手帳 もないそうです。
「 日本はどこかに行くとすぐ水戸黄門の印籠みたいに これが目に入らぬかって感じで、障害者手帳を使って優先してもらったり、いい席にしてもらったりしているけど、そういうことするから 嘘をついて利用しようとする人がいるんだよ。
 だいたい誰が1種1級 ( 障害の階級 ) とかそういうのを決めてるの?
 そういうことを決めること自体が差別しているんじゃない。」 とも言っておられました。

 アメリカに行くことになって、母が市役所の人に 「 外国で障害者手帳は利用できることが
ありますか?」 と聞いたら、「 身分証明書にはなります。」 という返答だったそうです。
 母も私も日本人だから、身障者手帳が役に立つと思っていたし、ありがたいものだと思っていました。
 でも、手帳があることで、健常者と障害者を差別していることになるという考え方があるとは 思いもよりませんでした。

 ( 白川郷の 雪景色 )
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 ※ 大同美香さんの ホームページ  http://www.geocities.jp/mikadaido/

2014年04月04日

必読 【 大同美香さんからの 伝言 】 ( 3 )

 ( 夕陽の海 )
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 両親は、学校の行事の、校外学習 ・ 宿泊学習 ・ 修学旅行などは、仕方なく、参加することを許してくれました。
 でも、家族だけで、外出することなど、ありませんでした。
 そんな両親でしたが、茨木養護学校で、同級生だった、富沢ゆかりちゃんの家族と出会って、少しずつ変わっていってくれました。
 富沢家と、母の仕事の関係で、知り合った、宮原のおっちゃんの協力を得て、家族同志の付き合いが始まり、色んな所に、連れて行ってくれました。

 中学2年から、高等部卒業するまでの、5年の間に、近畿周辺で、日帰りできる、距離と、限られていたけど、それまで、何処へも連れて行ってくれなかった分を、取り戻すかのように、色んな所に出かけ、一緒に連れて歩いてくれることで、世間の目にも慣れ、家族だけでも、出かけられるようになりました。

 初めて家族だけで、レストランに行ったのは、中学3年生の時、初めて家族だけで、旅行に行ったのは、高校2年生でした。
 もし、富沢家や宮原のおっちゃんと、出会っていなかったら、私の両親は、世間の目を気にして、家族で出かけることなんて、なかっただろうし、今は、ゆかりちゃんの家族と、宮原のおっちゃんに感謝しています。

 それから、中学2年生の、宿泊学習から帰った後、楽しかった時間が過ぎて、淋しくなり、心の中に、ポッカリと、穴が開いたようになりました。そして、あんな楽しいことは、死んだらもう2度とない、夜中に、心臓が止まって、死んでしまったら、どうしょうと思うようになり、
「死にたくない。」 と、毎日泣いていました。

 そんな時、家庭訪問で、親しくなり、交換日記までしてくれた、妹の担任の先生に、相談したら、
「ヒマやから考えるんや。 絵でも習ったらどうや。 」 とアドバイスをしてくれました。
 そして加藤先生に言って、 浜地先生 という、絵の先生を、紹介してもらいました。
 この浜地先生と、出会った事で、後に私は、個展という、夢を実現することが出来ました。

 絵は日記帳の終わりに、ちょこっと落書き程度、描いてたぐらいで、特に描くのが好き、というわけでもなかったけど、浜地先生が、先生と生徒というより、お友達みたいな感じで接して下さり、習い始めた頃から、上手だと褒めてもらうのが、嬉しくて、また、絵が描けた時の、満足感も手伝って、絵画教室に行くのが、楽しくなり、いつの間にか、「死にたくない病」 は忘れていました。

 高校も、茨木養護学校の、高等部に進みました。
 高等部の担任の先生は、今までと違って、若くて、当時は、独身の土倉先生でした。
 でも私が、高校2年生の秋に、結婚され、瓜生先生になりました。
 先生の披露宴に、少しだけ、出席させてもらいましたが、感動して、泣いてしまいました。
 高校3年生で、妊娠され、体調が良くなくて、途中で、講師の先生に代わりました。
 瓜生先生は、私と年齢が近いせいもあり、優しい、お姉さんみたいな感じでした。

 高校3年生で、安藤先生に出会いました。安藤先生も、凄く優しい先生で、今までに、あんな優しく、話しかけてくれる先生とは、出会ったことがありませんでした。
 3年生ということもあって、進路の方で、大変、お世話になりました。
 作業所や、大学の見学に連れて行ってもらった結果、試験で、大学に入れる学力もなく、茨木養護学校と交流があり、学校の近くにある追手門大学の聴講を、2年間、受けてきました。

 ( お世話になった 小倉先生 )
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2014年04月02日

【 筋電義手 】 って どんなもの ?

● 大同美香さんは、生後まもなく 大火傷にあい、両手をなくされてしまいますが、現在は、必要に応じて 義手を使用されています。

 美香さんが使っている義手は、「 能動義手 」 と 「 筋電義手 」 です。

 ( 能動義手 )
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 ( 筋電義手 )
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 ( 向かって 右が筋電義手 ・ 左が能動義手 )
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※ 筋電義手 ( Bionic Arm )って どんなもの ?
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%8B%E9%9B%BB%E7%BE%A9%E6%89%8B
※ 義手について
http://www2.tokuyama.ac.jp/home/~kadowaki/top/ensyuex/m05fujimura1r/souzou3/

※ メカニックな義手
 http://gigazine.net/news/20121120-artificial-arm/

2014年03月30日

必読 【 大同美香さんからの 伝言 】 ( 2 )

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 6年生になって、中学校は、どうするか? という話になった時、高槻市立養護学校は、
中学部までしかなくて、知的障害者が通う学校で、私は身体障害者ということもあり、
大阪府立茨木養護学校を、紹介してもらいました。
 見学に行って、両親は、いっぺんに気に入ってしまったけど、私は、それまでの人達と、
はなればなれになるのがイヤで、すんなり、決められませんでした。
 でも、最終的には、茨木養護学校に決めました。

 そして、この6年生から、中学生になる春休みに、私の容姿は火事に因るものだと、初めて知りました。 母は火事に遭った、3月27日の、夕方を選んで、生後20日迄の、写真が数枚あるのですが、その写真が貼ってある、アルバムを取り出し、「みーちゃんも生まれた時は、手も鼻もちゃんと有った。」と、言って、写真を見せてくれました。此れが私?と信じられませんでした。
 私は生まれた時から、こーゆー顔をしていたのだと思っていました。

 唯、妹は写真が沢山有るのに、何故、私には1枚も無いんだろう?と不信を抱いていた程度でした。なんせ、生まれつきだと思っていたから、疑うこともありませんでした。周りの人も、誰1人、教えてくれる人は居ませんでした。
 母は、皆に自分の口から言いたいからと口止めをしていて、何時言おうかとずっと悩んでいたそうです。ショックだったけど、全てを知った時も今も、恨む気持ちはありません。態としたわけではなくて、偶然起こったことで、仕方がないことだと思っています。

 中学生になって、茨木養護学校で、私の担任をしてくれた、加藤先生に出会いました。
 少し年をとった先生で、経験があり、中学部に入っても、訪問教育だった私を、スクールバスで毎日通う、通学籍に変えてしまいました。
 小学校5年生の時、毎週水曜日と、行事があった日は、先生の自家用車で、迎えに来てもらって、学校へ行き、6年生で、週に2回スクールバスで、通学出来るようにはなっていたけど、加藤先生は、訪問教育で私の家に来た時、1に説得・2に説得といったように、ゆっくり時間をかけて、先生や友達が優しいこと、学校は行事もあって、楽しいこと等を、話してくれました。
 そして先生の不思議な力で、いつの間にか、毎日学校へ行けるようになっていました。

 通学が当たり前になると、何故、毎日行けなかったのか、自分でも不思議な気持ちでした。もしかしたら、訪問教育だと、1人の先生としか会えないけど、学校に行けば、沢山の先生や、友達に会えるから、楽しくなっていったんだと思います。

 しかし、外に出るようになって、嬉しい反面、悲しいことも多くなりました。
 見ての通り、この顔なので、多分、皆さんも初めて見た時は、驚かれたと思います。
 外に出ると、ジロジロ見られるし、目が合った瞬間は見てくれるけど、次の瞬間、視線を反らせる人は、まだマシで、ほとんどの人は逃げてしまいます。
 子供は正直で、「何アレ〜?」 と御丁寧に、大きな声で言ってくれたり、気の弱い子は、泣き出してしまいます。
 そんな反応に、傷付くことを恐れてか、両親は、私が外に出ることを、喜んではくれませんでした。

 ここで、両親が、私をどれだけ、世間に出したくなかったのか、中学2年生の時、書いた作文を読んでみたいと思います。

  私の言いたいこと
 私は、家の周りに何があるか、知りませんでした。
 お父さんとお母さんが、私を、外に出してくれないからです.
 今でもお母さんが、毎日行くスーパーにまだ、行った事がありません。
 日曜日 皆は、ジャスコに行くけど、私はいつも、一人で留守番です。
 いつも今頃何しているかな? キット楽しいだろなァと、思いながら待っています。
 「私も行きたい。」 と言っても、いつもおこったように、アカンと言われます。
 いつかはOK! と言ってくれるだろうと思いながら、何度も言います。

 家にお客さんが来た時 「こっち来たら駄目」 と言われ、その上、戸を閉められます。
 その度に私は、悲しくなります。どうして会わせてくないのかと、聞いても、何も言ってくれません。
 おばあちゃんの家に行く時も、お金を払う所が近くなると、そこらへんにある、私を隠せる物で隠します。
 ほうじでおばあちゃんの家へ行った時、私は、皆の所に行けなくて、部屋にとじこめられます。トイレにも行けなくて、オマルでした事もあります。

 私はいつも、仲間ハズレです。怖い人がいるから行ったらアカンと言われて、本気にしました。でも今そんな怖い人なんているわけない! 私を他の人に見られないようにする、いいわけだとわかりました。
 今は、私を隠そうとする、お父さんとお母さんだけど、いつか色んな所へ、つれて行ってくれる日が、来る事を、信じています。


 あまりの凄さに、先生も驚き、 「 文集にして生徒が家に持って帰り、父兄が読むことになりますが、載せてもいいですか ? 」 と、母に問い合わせが、あったそうです。
 母は 「事実ですから仕方ないです。」 と返事をしたそうですが、私が書いたせいで、両親のイメージを、かなり悪くしたのは、いうまでもありません。

 ( 琵琶湖の花火 )
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2014年03月26日

必読 【 大同美香さんからの 伝言 】 ( 1 )

● 3/25 、【 大同美香 展 】 に行った時に、ホームページからの転載を 許可していただきました。

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 はじめに
 私は生後20日で、火事に遭い、布団から出していた手と、顔に火傷を負いました。
 その為、人とは違った30年間を、過ごしてきました。
 個展がきっかけで、K 教授と出会い、京都にある短大と大学で思いがけず、スピーチという経験をすることが出来ました。以下はその原稿です。
 少し長いですが、時間の許す限り、読んでみて下さい。

 私は、生後20日で、ストーブの上に、干してあった、おしめが落ちたのが原因で、火事に遭い、火傷を負いました。
 当然ですが、私には記憶がないので、ここからの話は、母や祖母から聞いたことになります。
 里帰り出産で、おばあちゃんが、火の中に飛び込んで、助け出してくれたそうです。
 でもヒドイ火傷で、救急病院から、国立豊岡病院、そして京大と病院を転々とし、診察してくれた、先生全員に、「覚悟をしておいて下さい。」と言われたそうです。
 親戚のおじさんが、私を見て、哀れに思い、この子の内臓を、提供するから、殺してやってほしいと、いうような内容のことを、教授に頼んだそうです。もうちょっとで殺されそうになったけど、法律が私を、守ってくれました。とにかく、完治する迄に、1年かかったそうです。

 そしておばあちゃんの家から、高槻に生活を移し、それからはずっと閉じ込められていて、おばあちゃんの家しか、行ったことがありませんでした。
 そして就学年齢になり、市役所の人が、「学校はどうされますか?」と、就学指導に来られた時、両親は、校区の小学校には通わせず、訪問教育を選んだそうです。

 訪問教育 というのは、養護学校に在籍し、そこの学校の先生に、家に来てもらって、勉強することです。
 でも、訪問教育といっても、毎日じゃなく、週2回。しかも2時間程度のものです。
 だから国語の漢字、数学の計算問題がやっとで、理科・社会を受ける時間はなく、全くといってもいい程、受けていません。

 就学指導と同時に、高槻医大を紹介してもらいました。
 というのは、今はこんな小さな目をしているけど、5才までは、上下の結膜が、腫れあがり、眼球が露出していて、まぶたがないので、目が乾燥して、失明する恐れがあるからと、手術を勧められたのです。それから小学4年生まで、毎年秋に入院をしました。
 小さい手術から、大手術まで合わせて、10回以上、期間は、短いので2週間、一番長いので100日位でした。

 その間、手術中、急に血圧が下がり、危険な状態になったり、口から麻酔がかけられないので、いつも気管切開で、気管に穴を開けられるから、喋れず、辛い思いをしました。
 5年生の秋に、いつも通り入院をし、検査してもらったら、貧血で手術が受けられず、それからは、1度も入院することもなく、今日まできました。

 小学校は、高槻市立養護学校の、訪問教育を受け、そこで 堀川先生 と出会いました。
 未だ学校へ入学していない、6才の誕生日に、先生は、お花を持って家に来て下さいました。
 それから、6年の間に、信頼関係が生まれ、何でも話せる “心の先生” になっていました。
 堀川先生は、私を学校に連れ出してくれるために、自動車の免許をとってくれたそうです。

 親の反対で、入学式にも出ていないから、生まれて初めて学校に行ったのは、小学1年生の時、キャンプファイアーの行事があった時でした。
 当然ながら、免許とりたての、若葉マークのついた先生の車で、先生の運転でした。
 それから医大の通院も、授業の一貫として、扱ってもらい、先生にも、病院へ一緒について行ってもらって、帰り、山に行ってドングリや、落ち葉を拾ったり、川に行ったり、いわゆる自然を見せて下さいました。

 初めてレストランに連れて行ってもらって、食べたハンバーグが美味しかったのも、憶えています。
 先生の家にも、何度も連れて行ってもらったこともあります。
 とにかく堀川先生は、私の知らなかった外の世界を見せてくれて、私を出したくないという、両親の考えを変える為にも、私を外に連れ出そうと、してくれた先生でした。

 ( 疎水 )
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2014年03月25日

【 大同 美香 展 】

● 2014.3.25 (火)、 【 大同美香 展 】 に 行って来ました。
   3月20日(木)〜 25日(火)
   会場 : アートスポット ギャラリー 「 マーヤ 」
       ( JR 高槻駅 南側 ・ グリーンプラザ 3号館 2F )

・ 大同美香さんは、お母さんが 里帰り出産中のこと、生後20日で、ストーブの上に干してあった おしめが落ちたのが原因で 火事に遭い、布団から出ていた手と顔に 大火傷を負いました。そして、両手を失ってしまいました。
 中学校 2年生の時に 水彩画に出会い、足で絵を描き始められました。

 ※ ( 大同美香さんの ホームページ )
  http://www.geocities.jp/mikadaido/

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● 今回の展覧会では、イタリア旅行をして、写してきた写真をもとに描かれた すてきな絵が多く展示されていましたよ !

 ( 絆 )
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 ( 神戸 ・ うろこ館 )
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 ( 道の駅 )
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 ( ピサの斜塔 )
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 ( フィレンツェの大聖堂 )
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 ( ゴンドラの二人 )
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 ( ゴンドラに乗って )
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 ( ベネチアの眺望 )
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